特別講演「伝説のゲームクリエイターに聞く」第4弾を終えて

ゲーム保存協会恒例となりました夏のイベント「伝説のゲームクリエイターに聞く」第4弾を本年も無事に開催させていただくことができました。
2019年8月3日にマイステイズ御茶ノ水コンファレンスセンターにて、今年はジークゲームズ代表取締役社長 宮路洋一さんに御講演いただきました。
宮路さんと言えば高い技術力で素晴らしいゲームを数多く発表してきた「ゲームアーツ」を設立した社長として有名ですが、その他にも非常に多くのゲームをプロデュースされてこられた方です。

今年も猛暑の夏です。当日は快晴で最高気温は34℃という真夏日でした。
午前中に正会員によるNPO年次総会を行い、会計報告やいくつかの議題を協議し、滞りなく総会は終了しました。

講演に先立って13時より「ゲームアーツの黎明期」展を開催しました。例年同様に協会メンバーが所蔵している国産PC市場で発売されたゲームアーツのゲームバッケージを数多く展示しました。更に今年はPCショップにあった店頭デモのディスクからイメージを作成し、パッケージだけではなくそれぞれのゲームのデモをエミュレータを使用して展示しました。
プレイアブル展示としては、ゲームアーツの代表作「テグザー」のPC-8801mk2SR版を用意しました。久しぶりにプレイしましたが、やはり難しい!

宮路さんはお忙しい中、14時開始の講演でしたが、13時の展示にも参加いただきました。
ご持参いただいた「ぎゅわんぶらあ自己中心派」の仕様書や当時執筆されたVIC-1001用ゲームブックなど貴重な資料を展示させていただきました。
展示されたゲームをご覧になりながら、講演外でしたが様々なお話をお伺いすることができました。個人的に興味があった話が有名なパズルゲーム「上海」に関するものでした。いつかお時間をいただき、もう少し詳しくお話させていただきたいと思いました。

講演には100名分の席を御用意させていただきましたが、事前の予約状況を確認すると満席で、今年は正会員の方が7割程と年々会の規模が大きくなっていっていることを感じました。

14時から小休憩を挟んでの3時間、ゲーム保存協会特別講演を開始しました。
事前に調べたところ、宮路さんはPC雑誌で多くのインタビューをお受けになられ、いずれの雑誌編集の方も宮路さんはお話が上手でつい時間を忘れてしまうというようなことが書かれていました。
実際に講演は3時間でしたが、あっという間に過ぎてしまいました。

まずアマチュア時代からアスキー第二出版部を経て、ゲームアーツ設立までのお話を一区切りとして伺いました。
ゲームやPCを目当てに秋葉原通いをしていた頃からアスターインターナショナル、COSMOS秋葉原でのアルバイト始められたことや、バイト先の店長であった浜田義史さんとの繋がりで、突然アスキーでの仕事が始まり、AXシリーズの企画やゲームデザインを行っていたということでした。
特にご自身がゲームデザインをした「SX-2 ドイツ アフリカ装甲軍団」は今でも名作の自信があるとのこと。音楽もリリー・マルレーンを許諾を取って使用したなどのお話をいただきました。
残念ながら当時は小学生でP6ユーザーではなかったため、自分は未プレイでしたが、これからぜひプレイしてみたいゲームでありました。
またMSX発売前夜のアスキー内では、とにかくなんでもいいからゲーム作ったらxxx万円だったというお話。プロデュースはやめて結局自分でも作ることに。いったいどのゲームなのか気になります。
1985年にゲームアーツを設立。設立時のメンバーの方についてお話いただき、弟さんである宮路武さん、池田公平さん、上坂 哲さん、内田俊幸さん、松田充弘さんなどの方々との出会い、関係についてお話いただきました。

続いてPC市場がメインであったころのお仕事や発表されたソフトについてお伺いしました。
土樽スキー場へPC-8801mkIISRを持ち込んで合宿したという話し。過去のインタビューなどでは、年末の1週間だけSRをNECからレンタルし、テグザーのプロトタイプを開発してNECに見せた所、SRの貸出の延長を許可されたという記事がありましたが、宮路さん曰く、実際は1週間で出来るわけがなく、打ち合わせはしたが、スキーに行っただけとのことでした。

設立当初は狭いアパートを借りて活動をされていたようですが、テグザーで一躍注目されるソフトメーカーとなり、3LDKぐらいのアパートへ引っ越したとのこと。
その頃は、雑誌への広告やディスクのデュプリケートからパッケージングまでが宮路さんの仕事であったそうで、月に1000枚ぐらいフロッピーディスクを自分でコピーしていたとのこと。
使用するフロッピーディスクドライブをレンタルショップから借りていたそうですが、3日ぐらいで壊れてしまい「壊れていますよ」と言って返却していたとは、レンタルショップが可哀想です。
大量のフロッピーディスク、パッケージが積まれ、その脇で現金書留が大量に届き、奥では開発をしているという「何がなんだかわからなかった」というぐらい非常に大変だったとのお話でした。

その後もシルフィードやゼリアード、ヴェイグスなど発売されたソフトについてお伺いしました。
シルフィードは、学校行かずに弟さんが作っておられ、非常に大変だったが、よく出せたなとのこと。ポリゴンを使ったシューティング、CSMトーキング、ワイヤーフレームのデモなど、自分達のやりたかったものや好きだったものをとにかく詰め込んだとのことです。

この様なお話の中で、雑誌ランキングなどの変遷から、ゲームアーツとしてのラインナップはどのように考えられていたか聞いてみました。
すると意外なことに、全く管理しておらず、みんなが自分の好きなようにゲームを作っていただけだったとのこと。いつぐらいに発売が可能かは見ていたが、とにかくやりたいことを作って行っただけ。アクションゲームに偏っている印象を受けていましたので意外でした。

そういうやり方であったため、自分は好きに麻雀ゲームを作ったとのこと。ぎゅわんぶらあ自己中心派シリーズや雀皇登竜門シリーズのお話は非常に興味深いものでした。
ぎゅわんぶらあ自己中心派はプログラマーである小松田裕一さんを1年間、缶詰にして作成したとのこと。小松田さんはパイパニックを作っていたにもかかわらず、麻雀を全く知らなかったということがプログラマーとして抜擢した後にわかったというお話。
宮路さんは夜に麻雀をやって、負けて悔しいから、それを日中にゲームの思考ルーチンに入れていたたということです。
雀皇登竜門はぎゅわんぶらあ自己中心派からツキをなくしたもので、日本プロ麻雀連盟公認を取った初のゲームですが、小島武夫さんとの出会いや麻雀のお話しも面白すぎでした。

趣味や好きなジャンルでゲームを作って、うまく行かなかったというお話もありました。
もともとボードゲームやシミュレーションゲームがお好きで、趣味を色濃くして作ったものがHARAKIRIであったとのことです。趣味で作るとたいてい失敗するということですが、HARAKIRIは名作だと思いますし、これを作ったから天下布武に繋がったとのことでした。

好きで作ったファミスタ。遊んでいて凄く面白いゲームであったため、ナムコへPC版の版権を貰って作ったようですが、88VAというプラットフォームの市場が狭いこともあり、対戦できるようにデュアルジョイポートまで作ったのに全然売れなかったとのことです。独自仕様であった、ペナントレースやニュースなど、本家のナムコ版へ取り込まれた要素もあるぐらい、よく出来たソフトだったと思います。

社長であった宮路さんですので、当時の国内ゲーム制作会社間の繋がりであったり、バンゲリングベイやシムシティを開発したWill WrightさんやSierra On-lineのKen Williamsさんとの関係、ソフト流通やデュプリケイト業者についてもお伺いすることができました。
特にゲーム会社の社長の方々は強烈な人ばかりで、SSTの社長会のことなどもお話いただきましたが、あまり表には言えないような活動だったようです。

多くのゲームを作成したPC市場でしたが、次第に衰退し、思うように売上が出なくなったことや、コンシューマー機の性能向上があり、コンシューマーへ参入していくことに。
ここで一度、小休憩をいただきました。

再開からはコンシューマーでの活動についてお伺いしました。
ゲームアーツ開発のゲームはパブリッシャーとして参入する以前から多くあったことが知られていますが、コンシューマーの方が売上があるから作ってみたいというようなことは全く考えていなかったとのこと。ファミコンのSDガンダムなどガンダムが好きでゲームを作ってみたくて作っただけであったり、PCエンジンのぎゅわんぶらあ自己中心派などは頼まれたので作ったりしていただけだったというお話でした。

ではどうしてセガのメガドライブに向かったのか?という疑問ですが、宮路さんが興味を持ったものがCD-ROMだったとのこと。1984年ぐらいから注目されていたようですが、期待していたCD-iは発売されず、PCエンジンのCD-ROM2も自分の思っているものではなかった。そのときにセガのメガCDが自分の求めていたものであったため、セガに行ったというお話でした。
セガや佐藤秀樹さんとは馬が合い、当時のセガの熱意が凄く、メガCDのに全部のリソースを掛けてみようということに。
その様なゲームアーツの熱意もあり、佐藤さんにメガCDのRAMを増設するようにさせ、結果メガCD 本体の価格が上がったのは宮路さんのせいだと仰られておりました。MEGA CDのGAはゲームアーツのGAであるという勢いで、ゲームを作成、発売していくことになります。

メガドライブ、メガCDで発売されたゲームについて、それぞれのご苦労を伺いました。
天下布武のオープニングやゆみみみっくすなどは、MPEGなどの規格が無い中、動画を再生する方法から、アニメスタジオを作って動画を作ったりと、一から全部を作るという過程が必要であったようです。
ぎゅわんぶらあ自己中心派2激闘!東京マージャンランド編はオリジナルの世界観を作り、これまでの全部のキャラを入れて喋らせるなど、集大成となった作品でした。
またシルフィードはとにかくポリゴン表現に拘った作品で、当時はリアルタイムで描画出来なかったので、背景の動画との組み合わせを苦労しながら作ったとのお話。フラクタルで地形を作ったりと、とにかく映像表現に拘った作品でした。
どのゲームも一貫してCD-ROMでどんなことが出来るのかを模索しつつ、素晴らしいゲームに仕上がっている作品でした。

またメガCDで発売されていた初期の海外ソフトであるシムアースやライズオブザドラゴン、ウイングコマンダー、プリンス・オブ・ペルシャのローカライズは全部ゲームアーツがやっていたようです。とにかくメガCDを盛り上げなければ行けないというような使命があったのでしょう。

更にハードを売るために必要な戦略としてRPGを作成することとし、スタジオアレックスやガイナックスの面々とLUNARザ・シルバースターを作成することに。
RPGはノウハウが無かったので非常に苦労されたようです。シナリオやキャラクターデザインは非常に良かったのだが、戦闘のエフェクトなどが完成に間に合わなかったので、エンカウントは1/20にして見せないように調整したとのことでした。あのエンカウント率の低さはそんなことが原因だったということを初めて知りました。
このように1が消化不良だったため、LUNARエターナルブルーはちゃんと作ったとのこと。宮路さん自身、3ヶ月ぐらい会社から出られず、シナリオや世界観、戦闘もしっかり作り込んだ作品に仕上がったというお話。メガCD終盤に発売されましたが、本当にこのゲームは傑作だと思います。

このような数多くのゲームをメガドライブ、メガCDで発表したゲームアーツでありました。そのころにはセガに完全にハマっており、その流れでセガサターンへ。セガサターンは凄いマシンで、今度は任天堂に勝てると思っていたそうです。

一方でプレイステーション前夜でもあり、ソニーの久夛良木 健さんとのご関係もお伺いしました。既にセガ派であったことや、弟さんと久夛良木さんとで技術的な点で意見が合わなかったことなどもあり、ゲームアーツはセガサターンに全力を注ぐことになります。

セガサターンでは、ガングリフォンについて伺いました。オープニングCGなどは現在の白組の前身が作成されたそうです。
ミリタリーに拘りがあったため、リアリティを追求する形で設定を考えていたとのこと。ロボットは戦車とヘリの中間に位置するであろうという想定のもと、ゲーム性を追求してこの形になったそうです。
ガングリフォンはIIも作られました。こちらも良いゲームでしたが、やりたかったという対戦を盛り込んだものの、これは一般にはかなり無理が。テレビ、本体など完全に2セットが必要というものです。宮路さん曰く、それがゲームアーツとのこと。ファミスタと同じです。

私がセガサターンの時代で一番お伺いしたかったのがEntertainment Software Publishing(ESP)とGD-NETです。この頃にはゲーム1本あたりの制作費がかなり高額になっていたため、パブリッシャーを作る必要があり、また大川功さんからの援助もあって、このような団体設立となったそうです。参加した会社からは、普通の大手では出せないような挑戦的、個性的な良いゲームがいくつも発表されました。
その流れで、大川功さんとのお話もお伺いできました。凄い事業家で、本当に漫画の世界のようなお金持ちであったとのこと。セガへの寄付やソフトバンクを出資、いくつもの逸話などを聞いて、ただただ驚愕するばかりでした。

その背景も手伝って制作できた、大作グランディア。社運を掛けたとのこと。サターンの性能をうまく使ったゲームで、ポリゴンとアニメスプライトというシステムは世界初です。

制作には非常に苦労されたようです。このころでRPGのノウハウがかなり培われたということでした。監督の本谷利明さんが非常に優秀な方でしたが、途中で居なくなっちゃう人だったそうで、タバコを買いに行って3日帰ってこなかったりしたそうです。監禁得意というパワーワードを頂きました。
グランディアは自分も本当に名作だと思います。今遊んでも十分楽しめる作品だと思います。

この様な時代背景の中、任天堂、ソニー、セガとの間で所謂ゲーム機戦争があったと思いましたので、こちらについてもお伺いしました。
宮路さんは意外にも、このような良い盛り上がりが必要で、楽しかったと思っていたそうです。
そしてプレイステーション勝利の理由としては、コンシューマー時代の流通であったというのが宮路さんのお話でした。ソニーの流通とスクウェア、エニックス、ナムコが結果としてプレイステーションに行ったこともあってプレイステーションの勝利となってしまったと。
一方で宮路さんは好きなことをやっていただけで、プレイステーションに行かなかったので、全然儲からなかったそうです。

最後はドリームキャストからプレイステーション2のお話をいただきました。
既にPS2の話しがあり、ドリームキャストは勝てないと思っていたそうですが、大川さんにドリームキャストが自分の夢だと言われて、大川さんの為にとドリームキャストへの参入を決めます。
その頃のESPの売上、利益からマザーズに上場しようと思っていたそうですが、こちらは大川さんに引き止められ、上場せずにESPでドリキャス市場に良いソフトを発表していきました。しかし残念な結果であったとのこと。

ドリームキャストでゲームアーツから唯一発売されたグランディア2についてお伺いしました。
当時宮路さんはESPのことを中心に仕事をされていたので、積極的には関われなかったそうです。
絵や戦闘は良かったと思っていらっしゃるようですが、シナリオに関わって面白くしたかったというのが心残りだというお話。

セガのドリームキャスト撤退からはPS2市場への参入となりました。
PS2でのゲームとしては、鄭問之三國誌でしょう。
制作に5年掛かり、そのうち絵に4年掛かったそうです。鄭問さんの描きたいようにようにやってもらったことで、美術史に残る良い作品ができたとのこと。
ゲームデザインも天下統一を作られた黒田幸弘さんが制作され、難しいが面白い作品になっています。

またグランディアシリーズがPS2でスクウェア・エニックスから販売されることになったこともお伺いしました。エニックスからグランディアをPS2で作らないかという話しがあって、制作することになったそうです。結果的にドラクエ、FF、グランディアの全てがスクエニとなりましたが、タイトルが残せたことは良かったと思っていらっしゃるようでした。

これまでの作って来られたゲームを振り返っていただき、「ゲームアーツで好きなゲームを作っていたが、資金繰りに追われるなど、自由に作る難しさがあった。しかしお金はなくなるけど作品は残る。苦労した作品は覚えている。いい作品を苦しみながら作るのはゲーム遊ぶより楽しい」という深いお言葉をいただきました。

最後に「宮路さんにとってのゲーム制作とは?」とお伺いしたところ、「趣味ですね。趣味と実益が一緒。ただ、本当に趣味の部分で作ってしまうと、ファミスタみたいにうまく行かないです。自分がやりたいゲームを作りたいというが今でもあります。」というお言葉をいただき、プロデューサーとしての苦労を伺えるお言葉だと思いました。笑いの絶えない興味深いお話をいただき、講演を終了させていただくことが出来ました。
今日の言葉は「CD-ROM」、「監禁得意」、「資金繰り」、「任天堂はいい会社」でした。

終了とした後に10分ほどお時間があるようでしたので、私が興味あることとして「ネットワークをどう考えていたのか?」ということを追加でお伺いしました。
アスキー時代はCompuServeなどに接続しており、ネットワークの未来は感じていたそうです。グランディアを制作していた頃にはネットワークの時代が来ると思い始めていたようですが、そこまで手が回らなかったため、作品はガンダムネットワークオペレーション発表までなかったとのこと。
またコンシューマーとネットワークは文化が違うと思っていたため、ゲームアーツをネットワークに振るのではなく、新しくネットワークに取り組みたいと思いゲームアーツを退社なされたとのことでした。
ここまでお話をいただき、講演は終了となりました。

 

公演終了後には、事前に申し込みいただいたサポーターの方々と会場を変えて懇親会を行いました。
こちらへも多くの方々にご参加いただいき、先の講演ではお話できなかったようなことまで宮路さんからお伺いすることが出来ました。懇親会もあっという間に時間が過ぎ去ってしまい、気づけば19時の解散となりました。

宮路さんとお話をさせていただくと、本当にあっという間に時間が過ぎてしまうということを体験しました。
長時間に渡り講演、お付き合い頂いた宮路洋一さんに感謝させていただくとともに、本年もイベントへご来場、参加くださった多くの方々、活動へ賛同いただいておりますサポーターの方々へ感謝いたします。

ゲーム保存協会はゲーム保存活動や研究のみならず、講演などを通じてゲームの歴史を掘り起こし、伝えていく活動も精力的に開催させていただきたいと考えております。こうした取り組みはサポーターの皆さまからのご支援により実現するものです。これからも活動を継続できるよう励んでまいりますので、今後ともご協力の程どうぞよろしくお願いいたします。

宮路さん、福田さん、
ありがとう!

投稿カテゴリー:報告投稿日本講演