「NECパーソナルコンピューター PC-8001誕生40周年記念記者会見」に出席に寄せて

9月に入り、残暑が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?
さる2019年8月5日、ゲーム保存協会は光栄にも「NECパーソナルコンピューターPC-8001誕生40周年記念記者会見」にご招待いただきました。日本のパソコン文化の歴史の歩みと、それに関わる多くの人達に温かく祝福された素敵な会見でしたので、皆さまにレポートいたします。
80年代からのマイコンファンとして、少しでも会場の雰囲気とワクワクした気持ちを共有できますと嬉しく思います。

展示の様子

会場では、NEC歴代のパソコンが、当時の流行・文化の年表とともに展示されていました。
TK-80から始まり、PC-8001、PC-6001、PC-9801などのマイコンから近年のパソコンまでがズラリと並ぶ姿は圧巻でした。(PC-88がなかったのが少し寂しかったです。笑)

TK-80/PC-8001の前身であるトレーニングキット。後述の西氏スピーチで語られるが、左上から4番目に空のソケットが見える

 

PC-6001

PC-6001/熱狂的なファンも多い、愛称はパピコン

PC-100

PC-100/アスキー創業者・西氏スピーチで語られたWindows1.0世界1号機、世界初マウス・インターフェース

そして今回のイベントでお披露目になった記念モデル「LAVIE Pro Mobile」。

40th-model

PC-8001をオマージュしたカラーリングのデザインで、機体にはキラリと光る旧NECのロゴが入っているシックなデザイン。本体もかなり軽く、男女年代問わず持っていて違和感がありません。「欲しい」と思える、シンプルイズベストという言葉がぴったりの非常に美しいパソコンでした。

そして皆さんお待ちかねのPasocomMini PC-8001です。

pasocomMini

操作方法がわからなかったので、ハル研のスタッフの方にサポートしてもらいながら、いくつかゲームを遊ばせていただきました。
せっかくですので、少し「平安京エイリアン」を遊んでみました。実は初プレイでしたが、なかなか奥が深く、何度もプレイしてしまいました…!

 

会見の流れ

時間になり会見が始まりました。会見の流れは以下の通りでした。

・デビット・ベネット社長のご挨拶
・元日本電気支配人の渡辺和也(わたなべかずや)氏のスピーチ
・元日本電気PC-8001開発者の後藤富雄(ごとうとみお)氏のスピーチ
・アスキー創業者 西和彦(にしかずひこ)氏のスピーチ
・新製品プレゼンテーション/炎神(えんじん) 総合プロデューサー森部浩至(もりべひろし)氏
・エンディング(デビット社長の挨拶)

 

―デビット・ベネット社長のご挨拶

デビット社長は日本語がとても堪能で、NEC PCのヒストリーから、今回のPC-8001 40周年イベントの主旨、40周年記念 限定モデル「LAVIE Pro Mobile」の発表がありました。デビット社長もPC-8001と同じ1979年生まれで、運命的なものを感じました。デビット社長が限定モデルのパソコンを立ち上げた際、旧ロゴ「NEC」が表示されて会場では歓声が上がっていました。ちょっとしたサプライズでした!
PasocomMini PC-8001は、購入者キャンペーンでプレゼント。こちらはPC-8001をエミュレーションし、しかも当時マイクロソフト社が開発したN-BASICを搭載するとのこと。これは凄い話です。

 

―元日本電気支配人の渡辺和也氏のスピーチ

PC-8001誕生までのお話を拝聴しました。
当時、市場の強い要望に応え、TK-80上位機種を求める声が高まったことがPC-8001誕生の背景になったとのこと。NECは技術情報を積極的に開示し、結果サードパーティと共存共栄したことが成功の秘訣だったようです。TK-80の解説本「マイコン入門」は、松本清張の「砂の器」と並んでベストセラーとなり、当時のパソコンの熱いムーブメントを感じますね。

PC-8001発売にあたり、基本ソフトの必須条件としていたのは2点。

1 . 出来るだけ多くの人に使ってもらうため、将来デファクト・スタンダードに近づけるもの(技術優位よりユーザーフレンドリー)
2 . 使用実績があり、バグ取りがかなり進んだもの(前機種では、かなりバグが多く、非常に苦労した)

結果、マイクロソフトのN-BASICを選択しましたが、当時のマイクロソフトは当時立ち上がったばかりで、従業員規模は12、3人と小さかったため、「取引するのはマズイのでは?」という声もあった苦労を語られました。PC-8001発売後もオープンポリシーを継続し、サードパーティーと共存することがNECのトップシェアをキープする要因となった、とのことでした。
40年も前に積極的に技術開示をする姿勢は、非常に先進的に感じられ、パソコン文化を盛り上がげていったのも自然だなと頷けました。

 

―元日本電気PC-8001開発者の後藤富雄氏のスピーチ

担当技術者として、どう関わったかのお話をいただきました。
後藤さんは、学生時代まではコンピューターが一切なく、NEC入社後にPDP-8(DECが製造したミニコンピューター)をしゃぶりつくすように研究したのがきっかけ。
マイクロウェーブのNECということで憧れて入社したものの、実際はマイクロエレクトロニクス、半導体事業部へ配属。しかしそこには、素晴らしい先輩・仲間、若い技術者を大切にされた素晴らしい環境があったとのことでした。
九州日本電気へ出向すると、LSIテスターを行って、コントローラはしゃぶりつくしたPDP-8を使用。コンピューターのハード・ソフトを独習していったのです。

マイクロプロセッサが誕生すると、マイクロプロセッサを使う人に教育をしなければいけないということで作ったのがTK-80でした。
そして、PC-8001へ繋がったのは、ホビイストが集まる秋葉原のBit-Inn。その中で聞いたところ、遊びの訴求ではなく、実用になるような、しっかりとしたものを作ってほしいとの要望がありました。そのためには、超強力なBASICが必要で、西さん、渡辺さんとの出会いがあり、ビル・ゲイツさんの所まで飛んでいき、やりましょうという話になった。フロッピーやディスプレイなど、色んなハードを動かすことを実現できるのはマイクロソフトのBASICだけだったのでは、としみじみ語っておられました。

最後に、今までのパソコンは個人の知的能力を拡大する道具だったが、これからは、ネットワークで繋がったPC・モバイルは、地球規模での人類の知的能力、コミュニケーションを拡大し、人類が抱える問題を解決できる可能性がある、との話で締めくくりました。
後藤さんを取り巻く素晴らしい人々と、未来の光を感じさせるような素敵なスピーチとなりました。

 

―アスキー創業者 西和彦氏のスピーチ

西さんからはNECを外から見たお話をされていました。
独特の語り口調と憎めないキャラクターで、ビル・ゲイツ氏との出会いや当時のパソコン変遷を面白く語られ、会場を沸かせます。

原点はアマチュア無線で、西さんはTK-80を見て「へぇー!」と非常に感動。よく見ると、TK-80は空のソケットがあり、「ここにBASICを乗せよう!」と思ったのが全ての始まり、だったとのことでした。
その後は、アスキーでも初期パソコンが出るたびに、酷評レビュー。渡辺和也さんがオープンマインドな方で、「悪口を書いてもってこい」とのことで、素晴らしいと思ったそうです。

ついには僕たちで理想のパソコンを作ろう!ということで、ビル・ゲイツ氏と話をして「こういうパソコンを作ろう、NECへ提案に行こう」と言って出来たのがPC-8001だった、とのことでした。その後も次々にNECへ提案を持って行って、マイクロソフトのコラボレーションがありがたかった、とのこと。
印象的だったのは PC100の提案で、これはWindowsパソコンの世界1号機。Windows1.0 が動き、マウスも動いて、凄かった。NECはPC-9801で一本化され、政治によってつぶされたとのことでした。マイクロソフトでは新規事業を担当。その後も、WindowsとCD-ROM、半導体、デジタル オーディオ・ビデオ、タッチスクリーンの携帯など多くの事業を手掛けられたお話をしました。そして40年前から一緒にタッグを組んだ後藤さんと一緒に、これからはIoTということで活動中です。

西さんも後藤さんも40年経っても変わらず、現在進行形で新しい技術に対して、意欲的に取り組んでいらっしゃるので、まさに生涯現役といった印象です。
決して昔の語り草ではなく、過去、現在、そして未来まで。まるで一緒にタイムマシンに乗っているような心持ちで、身が引き締まる思いでした。

 

―新製品プレゼンテーション/炎神 総合プロデューサー森部浩至氏

森部さんからは新製品のプレゼン。前段の背景として、パソコンは、ツールからパートナーへ進化していき、今後は「Pro(ワークスタイル改革)/Education(教育改革)/Home(ライフスタイル改革)」の3軸をフォーカスしていくというお話がありました。
そして、最後にサプライズ。なんと、どこかで見たようなロゴが映し出されました!

当協会のルドン理事長も大好きな、あのゲームハードを彷彿とさせますね(笑)。
今後はNECとしてもゲーミングPCを展開していくとのことで、かなりインパクトのある発表でした。

 

なお、各登壇者スピーチの合間には、関係各社からのビデオメッセージが流れ、マイクロソフト、インテルから、なんとマウスコンピューター、富士通など、競合会社の方も含めて、会場の場を和ませるメッセージが寄せられました。

印象的だったのは、富士通からのコメントです。NECを「お兄さん」、富士通を「弟」と呼び、終始お兄さんの後を追いかけ、伴走し、切磋琢磨してパソコン業界を築いた軌跡をお話いただき、会場では、この真剣な「お兄さん」語りの絶妙な可笑しさに、会場は笑いに包まれました。

 

そして最後は、デビット社長の挨拶。
「炎神」について。よく「NECはゲーミングPCは作らないのか」と聞かれるが、実は40年前にゲーミングPCを作っていた、それがPC-8001。だからゲーミングPCの名前は炎神・フェニックスとし、ゲーマーを満足させるものにするとのコメントがありました。
今回の40周年は、NECだけではなく日本のPC業界、皆でお祝いしたかったので、このように各社からのメッセージを集めた、日本のメーカーが本気になれば、世界が動く製品になるはず。それをやりますので、期待してくださいと、力強いメッセージで締めくくられました。

終了後は、出席者の懇親会が開催されました。
電波新聞社の大橋編集長が乾杯の音頭を取り、ベーマガ復活の狼煙を上げた「電子工作マガジン」が非常に好調で、ファンの注目を集めていることをPR。多くの関係各社・人達から支えられ、今日を迎えられたという暖かい気持ちのまま、和やかな雰囲気で会場を後にしました。

 

会見に出席して

貴重な会見に出席させていただき、関係者の皆さまには改めて深くお礼申し上げます。
パソコンの歴史書を紐解く瞬間に立ち会えた心持ちです。

 

40年以上も前から綿々と情熱を注ぐ作り手、メーカー、そしてパソコンに魅了されて盛り上げていったユーザーの皆さん。今のIT業界のリーダーシップを取っている方々からのビデオメッセージを見ると、「あぁこの方もNECのパソコンで育ってきたんだなぁ…」と共感し、じんわり嬉しくも暖かい気持ちがこみ上げてきました。
今日の日本パソコン文化を牽引した立役者は、NEC抜きでは語ることはできません。

 

TK-80を経て、改めてフォーカスされた、NEC初の本格的なパソコン「PC-8001」。
記事を読んでいる方の中には、「何故PasocomMiniは、PC-8001なの?」と思った方もいらっしゃるかと思います。ですが、PC-8001・40周年記念会見が、テレビのニュースでも報道され、話題になったことは、日本のパソコン文化の原点に立ち返り、非常に重要で、意味のあることのように感じます。
また当時のマイクロソフトと協業して作られたN-BASICが搭載されたPasocomMiniで、現代の技術環境で動かせるというのは、改めてとても感動的な気持ちになりました。

 

ゲーム保存協会は、次世代へ日本のパソコン、ゲーム文化を伝えるためのPasocomMiniに期待を寄せており、今回も資料提供など協力をさせていただきました。
これもひとえにサポーターの皆さんのご支援があって、本プロジェクトへの協力・支援に繋がったと実感しております。

 

支援してくださる方々のパワーが集まって大きくなり、確実に成果となって実を結んでいます。自分も参加したい!と思った方は、サポーターとしてご支援いただけますと幸いです。メンバー一同の励みとなり、より一層の成果となるよう活動に取り組んでまいります。

★サポーター参加はこちらから

今回の記者会見の出席者には、PasocomMini PC-8001本体がレビュー用試作機として贈呈されました。今後もゲーム文化の保存の一助となるPasocomMiniを応援すべく、保存協会メンバーでの使用レビューを記事にしたいと思いますので、どうぞ楽しみにしていてくださいね。

 


【関連サイト】
・NECダイレクト 40周年記念 限定プレミアムモデル
・ハル研究所 PasocomMini公式サイト

特別講演「伝説のゲームクリエイターに聞く」第4弾を終えて

ゲーム保存協会恒例となりました夏のイベント「伝説のゲームクリエイターに聞く」第4弾を本年も無事に開催させていただくことができました。
2019年8月3日にマイステイズ御茶ノ水コンファレンスセンターにて、今年はジークゲームズ代表取締役社長 宮路洋一さんに御講演いただきました。
宮路さんと言えば高い技術力で素晴らしいゲームを数多く発表してきた「ゲームアーツ」を設立した社長として有名ですが、その他にも非常に多くのゲームをプロデュースされてこられた方です。

今年も猛暑の夏です。当日は快晴で最高気温は34℃という真夏日でした。
午前中に正会員によるNPO年次総会を行い、会計報告やいくつかの議題を協議し、滞りなく総会は終了しました。

講演に先立って13時より「ゲームアーツの黎明期」展を開催しました。例年同様に協会メンバーが所蔵している国産PC市場で発売されたゲームアーツのゲームバッケージを数多く展示しました。更に今年はPCショップにあった店頭デモのディスクからイメージを作成し、パッケージだけではなくそれぞれのゲームのデモをエミュレータを使用して展示しました。
プレイアブル展示としては、ゲームアーツの代表作「テグザー」のPC-8801mk2SR版を用意しました。久しぶりにプレイしましたが、やはり難しい!

宮路さんはお忙しい中、14時開始の講演でしたが、13時の展示にも参加いただきました。
ご持参いただいた「ぎゅわんぶらあ自己中心派」の仕様書や当時執筆されたVIC-1001用ゲームブックなど貴重な資料を展示させていただきました。
展示されたゲームをご覧になりながら、講演外でしたが様々なお話をお伺いすることができました。個人的に興味があった話が有名なパズルゲーム「上海」に関するものでした。いつかお時間をいただき、もう少し詳しくお話させていただきたいと思いました。

講演には100名分の席を御用意させていただきましたが、事前の予約状況を確認すると満席で、今年は正会員の方が7割程と年々会の規模が大きくなっていっていることを感じました。

14時から小休憩を挟んでの3時間、ゲーム保存協会特別講演を開始しました。
事前に調べたところ、宮路さんはPC雑誌で多くのインタビューをお受けになられ、いずれの雑誌編集の方も宮路さんはお話が上手でつい時間を忘れてしまうというようなことが書かれていました。
実際に講演は3時間でしたが、あっという間に過ぎてしまいました。

まずアマチュア時代からアスキー第二出版部を経て、ゲームアーツ設立までのお話を一区切りとして伺いました。
ゲームやPCを目当てに秋葉原通いをしていた頃からアスターインターナショナル、COSMOS秋葉原でのアルバイト始められたことや、バイト先の店長であった浜田義史さんとの繋がりで、突然アスキーでの仕事が始まり、AXシリーズの企画やゲームデザインを行っていたということでした。
特にご自身がゲームデザインをした「SX-2 ドイツ アフリカ装甲軍団」は今でも名作の自信があるとのこと。音楽もリリー・マルレーンを許諾を取って使用したなどのお話をいただきました。
残念ながら当時は小学生でP6ユーザーではなかったため、自分は未プレイでしたが、これからぜひプレイしてみたいゲームでありました。
またMSX発売前夜のアスキー内では、とにかくなんでもいいからゲーム作ったらxxx万円だったというお話。プロデュースはやめて結局自分でも作ることに。いったいどのゲームなのか気になります。
1985年にゲームアーツを設立。設立時のメンバーの方についてお話いただき、弟さんである宮路武さん、池田公平さん、上坂 哲さん、内田俊幸さん、松田充弘さんなどの方々との出会い、関係についてお話いただきました。

続いてPC市場がメインであったころのお仕事や発表されたソフトについてお伺いしました。
土樽スキー場へPC-8801mkIISRを持ち込んで合宿したという話し。過去のインタビューなどでは、年末の1週間だけSRをNECからレンタルし、テグザーのプロトタイプを開発してNECに見せた所、SRの貸出の延長を許可されたという記事がありましたが、宮路さん曰く、実際は1週間で出来るわけがなく、打ち合わせはしたが、スキーに行っただけとのことでした。

設立当初は狭いアパートを借りて活動をされていたようですが、テグザーで一躍注目されるソフトメーカーとなり、3LDKぐらいのアパートへ引っ越したとのこと。
その頃は、雑誌への広告やディスクのデュプリケートからパッケージングまでが宮路さんの仕事であったそうで、月に1000枚ぐらいフロッピーディスクを自分でコピーしていたとのこと。
使用するフロッピーディスクドライブをレンタルショップから借りていたそうですが、3日ぐらいで壊れてしまい「壊れていますよ」と言って返却していたとは、レンタルショップが可哀想です。
大量のフロッピーディスク、パッケージが積まれ、その脇で現金書留が大量に届き、奥では開発をしているという「何がなんだかわからなかった」というぐらい非常に大変だったとのお話でした。

その後もシルフィードやゼリアード、ヴェイグスなど発売されたソフトについてお伺いしました。
シルフィードは、学校行かずに弟さんが作っておられ、非常に大変だったが、よく出せたなとのこと。ポリゴンを使ったシューティング、CSMトーキング、ワイヤーフレームのデモなど、自分達のやりたかったものや好きだったものをとにかく詰め込んだとのことです。

この様なお話の中で、雑誌ランキングなどの変遷から、ゲームアーツとしてのラインナップはどのように考えられていたか聞いてみました。
すると意外なことに、全く管理しておらず、みんなが自分の好きなようにゲームを作っていただけだったとのこと。いつぐらいに発売が可能かは見ていたが、とにかくやりたいことを作って行っただけ。アクションゲームに偏っている印象を受けていましたので意外でした。

そういうやり方であったため、自分は好きに麻雀ゲームを作ったとのこと。ぎゅわんぶらあ自己中心派シリーズや雀皇登竜門シリーズのお話は非常に興味深いものでした。
ぎゅわんぶらあ自己中心派はプログラマーである小松田裕一さんを1年間、缶詰にして作成したとのこと。小松田さんはパイパニックを作っていたにもかかわらず、麻雀を全く知らなかったということがプログラマーとして抜擢した後にわかったというお話。
宮路さんは夜に麻雀をやって、負けて悔しいから、それを日中にゲームの思考ルーチンに入れていたたということです。
雀皇登竜門はぎゅわんぶらあ自己中心派からツキをなくしたもので、日本プロ麻雀連盟公認を取った初のゲームですが、小島武夫さんとの出会いや麻雀のお話しも面白すぎでした。

趣味や好きなジャンルでゲームを作って、うまく行かなかったというお話もありました。
もともとボードゲームやシミュレーションゲームがお好きで、趣味を色濃くして作ったものがHARAKIRIであったとのことです。趣味で作るとたいてい失敗するということですが、HARAKIRIは名作だと思いますし、これを作ったから天下布武に繋がったとのことでした。

好きで作ったファミスタ。遊んでいて凄く面白いゲームであったため、ナムコへPC版の版権を貰って作ったようですが、88VAというプラットフォームの市場が狭いこともあり、対戦できるようにデュアルジョイポートまで作ったのに全然売れなかったとのことです。独自仕様であった、ペナントレースやニュースなど、本家のナムコ版へ取り込まれた要素もあるぐらい、よく出来たソフトだったと思います。

社長であった宮路さんですので、当時の国内ゲーム制作会社間の繋がりであったり、バンゲリングベイやシムシティを開発したWill WrightさんやSierra On-lineのKen Williamsさんとの関係、ソフト流通やデュプリケイト業者についてもお伺いすることができました。
特にゲーム会社の社長の方々は強烈な人ばかりで、SSTの社長会のことなどもお話いただきましたが、あまり表には言えないような活動だったようです。

多くのゲームを作成したPC市場でしたが、次第に衰退し、思うように売上が出なくなったことや、コンシューマー機の性能向上があり、コンシューマーへ参入していくことに。
ここで一度、小休憩をいただきました。

再開からはコンシューマーでの活動についてお伺いしました。
ゲームアーツ開発のゲームはパブリッシャーとして参入する以前から多くあったことが知られていますが、コンシューマーの方が売上があるから作ってみたいというようなことは全く考えていなかったとのこと。ファミコンのSDガンダムなどガンダムが好きでゲームを作ってみたくて作っただけであったり、PCエンジンのぎゅわんぶらあ自己中心派などは頼まれたので作ったりしていただけだったというお話でした。

ではどうしてセガのメガドライブに向かったのか?という疑問ですが、宮路さんが興味を持ったものがCD-ROMだったとのこと。1984年ぐらいから注目されていたようですが、期待していたCD-iは発売されず、PCエンジンのCD-ROM2も自分の思っているものではなかった。そのときにセガのメガCDが自分の求めていたものであったため、セガに行ったというお話でした。
セガや佐藤秀樹さんとは馬が合い、当時のセガの熱意が凄く、メガCDのに全部のリソースを掛けてみようということに。
その様なゲームアーツの熱意もあり、佐藤さんにメガCDのRAMを増設するようにさせ、結果メガCD 本体の価格が上がったのは宮路さんのせいだと仰られておりました。MEGA CDのGAはゲームアーツのGAであるという勢いで、ゲームを作成、発売していくことになります。

メガドライブ、メガCDで発売されたゲームについて、それぞれのご苦労を伺いました。
天下布武のオープニングやゆみみみっくすなどは、MPEGなどの規格が無い中、動画を再生する方法から、アニメスタジオを作って動画を作ったりと、一から全部を作るという過程が必要であったようです。
ぎゅわんぶらあ自己中心派2激闘!東京マージャンランド編はオリジナルの世界観を作り、これまでの全部のキャラを入れて喋らせるなど、集大成となった作品でした。
またシルフィードはとにかくポリゴン表現に拘った作品で、当時はリアルタイムで描画出来なかったので、背景の動画との組み合わせを苦労しながら作ったとのお話。フラクタルで地形を作ったりと、とにかく映像表現に拘った作品でした。
どのゲームも一貫してCD-ROMでどんなことが出来るのかを模索しつつ、素晴らしいゲームに仕上がっている作品でした。

またメガCDで発売されていた初期の海外ソフトであるシムアースやライズオブザドラゴン、ウイングコマンダー、プリンス・オブ・ペルシャのローカライズは全部ゲームアーツがやっていたようです。とにかくメガCDを盛り上げなければ行けないというような使命があったのでしょう。

更にハードを売るために必要な戦略としてRPGを作成することとし、スタジオアレックスやガイナックスの面々とLUNARザ・シルバースターを作成することに。
RPGはノウハウが無かったので非常に苦労されたようです。シナリオやキャラクターデザインは非常に良かったのだが、戦闘のエフェクトなどが完成に間に合わなかったので、エンカウントは1/20にして見せないように調整したとのことでした。あのエンカウント率の低さはそんなことが原因だったということを初めて知りました。
このように1が消化不良だったため、LUNARエターナルブルーはちゃんと作ったとのこと。宮路さん自身、3ヶ月ぐらい会社から出られず、シナリオや世界観、戦闘もしっかり作り込んだ作品に仕上がったというお話。メガCD終盤に発売されましたが、本当にこのゲームは傑作だと思います。

このような数多くのゲームをメガドライブ、メガCDで発表したゲームアーツでありました。そのころにはセガに完全にハマっており、その流れでセガサターンへ。セガサターンは凄いマシンで、今度は任天堂に勝てると思っていたそうです。

一方でプレイステーション前夜でもあり、ソニーの久夛良木 健さんとのご関係もお伺いしました。既にセガ派であったことや、弟さんと久夛良木さんとで技術的な点で意見が合わなかったことなどもあり、ゲームアーツはセガサターンに全力を注ぐことになります。

セガサターンでは、ガングリフォンについて伺いました。オープニングCGなどは現在の白組の前身が作成されたそうです。
ミリタリーに拘りがあったため、リアリティを追求する形で設定を考えていたとのこと。ロボットは戦車とヘリの中間に位置するであろうという想定のもと、ゲーム性を追求してこの形になったそうです。
ガングリフォンはIIも作られました。こちらも良いゲームでしたが、やりたかったという対戦を盛り込んだものの、これは一般にはかなり無理が。テレビ、本体など完全に2セットが必要というものです。宮路さん曰く、それがゲームアーツとのこと。ファミスタと同じです。

私がセガサターンの時代で一番お伺いしたかったのがEntertainment Software Publishing(ESP)とGD-NETです。この頃にはゲーム1本あたりの制作費がかなり高額になっていたため、パブリッシャーを作る必要があり、また大川功さんからの援助もあって、このような団体設立となったそうです。参加した会社からは、普通の大手では出せないような挑戦的、個性的な良いゲームがいくつも発表されました。
その流れで、大川功さんとのお話もお伺いできました。凄い事業家で、本当に漫画の世界のようなお金持ちであったとのこと。セガへの寄付やソフトバンクを出資、いくつもの逸話などを聞いて、ただただ驚愕するばかりでした。

その背景も手伝って制作できた、大作グランディア。社運を掛けたとのこと。サターンの性能をうまく使ったゲームで、ポリゴンとアニメスプライトというシステムは世界初です。

制作には非常に苦労されたようです。このころでRPGのノウハウがかなり培われたということでした。監督の本谷利明さんが非常に優秀な方でしたが、途中で居なくなっちゃう人だったそうで、タバコを買いに行って3日帰ってこなかったりしたそうです。監禁得意というパワーワードを頂きました。
グランディアは自分も本当に名作だと思います。今遊んでも十分楽しめる作品だと思います。

この様な時代背景の中、任天堂、ソニー、セガとの間で所謂ゲーム機戦争があったと思いましたので、こちらについてもお伺いしました。
宮路さんは意外にも、このような良い盛り上がりが必要で、楽しかったと思っていたそうです。
そしてプレイステーション勝利の理由としては、コンシューマー時代の流通であったというのが宮路さんのお話でした。ソニーの流通とスクウェア、エニックス、ナムコが結果としてプレイステーションに行ったこともあってプレイステーションの勝利となってしまったと。
一方で宮路さんは好きなことをやっていただけで、プレイステーションに行かなかったので、全然儲からなかったそうです。

最後はドリームキャストからプレイステーション2のお話をいただきました。
既にPS2の話しがあり、ドリームキャストは勝てないと思っていたそうですが、大川さんにドリームキャストが自分の夢だと言われて、大川さんの為にとドリームキャストへの参入を決めます。
その頃のESPの売上、利益からマザーズに上場しようと思っていたそうですが、こちらは大川さんに引き止められ、上場せずにESPでドリキャス市場に良いソフトを発表していきました。しかし残念な結果であったとのこと。

ドリームキャストでゲームアーツから唯一発売されたグランディア2についてお伺いしました。
当時宮路さんはESPのことを中心に仕事をされていたので、積極的には関われなかったそうです。
絵や戦闘は良かったと思っていらっしゃるようですが、シナリオに関わって面白くしたかったというのが心残りだというお話。

セガのドリームキャスト撤退からはPS2市場への参入となりました。
PS2でのゲームとしては、鄭問之三國誌でしょう。
制作に5年掛かり、そのうち絵に4年掛かったそうです。鄭問さんの描きたいようにようにやってもらったことで、美術史に残る良い作品ができたとのこと。
ゲームデザインも天下統一を作られた黒田幸弘さんが制作され、難しいが面白い作品になっています。

またグランディアシリーズがPS2でスクウェア・エニックスから販売されることになったこともお伺いしました。エニックスからグランディアをPS2で作らないかという話しがあって、制作することになったそうです。結果的にドラクエ、FF、グランディアの全てがスクエニとなりましたが、タイトルが残せたことは良かったと思っていらっしゃるようでした。

これまでの作って来られたゲームを振り返っていただき、「ゲームアーツで好きなゲームを作っていたが、資金繰りに追われるなど、自由に作る難しさがあった。しかしお金はなくなるけど作品は残る。苦労した作品は覚えている。いい作品を苦しみながら作るのはゲーム遊ぶより楽しい」という深いお言葉をいただきました。

最後に「宮路さんにとってのゲーム制作とは?」とお伺いしたところ、「趣味ですね。趣味と実益が一緒。ただ、本当に趣味の部分で作ってしまうと、ファミスタみたいにうまく行かないです。自分がやりたいゲームを作りたいというが今でもあります。」というお言葉をいただき、プロデューサーとしての苦労を伺えるお言葉だと思いました。笑いの絶えない興味深いお話をいただき、講演を終了させていただくことが出来ました。
今日の言葉は「CD-ROM」、「監禁得意」、「資金繰り」、「任天堂はいい会社」でした。

終了とした後に10分ほどお時間があるようでしたので、私が興味あることとして「ネットワークをどう考えていたのか?」ということを追加でお伺いしました。
アスキー時代はCompuServeなどに接続しており、ネットワークの未来は感じていたそうです。グランディアを制作していた頃にはネットワークの時代が来ると思い始めていたようですが、そこまで手が回らなかったため、作品はガンダムネットワークオペレーション発表までなかったとのこと。
またコンシューマーとネットワークは文化が違うと思っていたため、ゲームアーツをネットワークに振るのではなく、新しくネットワークに取り組みたいと思いゲームアーツを退社なされたとのことでした。
ここまでお話をいただき、講演は終了となりました。

 

公演終了後には、事前に申し込みいただいたサポーターの方々と会場を変えて懇親会を行いました。
こちらへも多くの方々にご参加いただいき、先の講演ではお話できなかったようなことまで宮路さんからお伺いすることが出来ました。懇親会もあっという間に時間が過ぎ去ってしまい、気づけば19時の解散となりました。

宮路さんとお話をさせていただくと、本当にあっという間に時間が過ぎてしまうということを体験しました。
長時間に渡り講演、お付き合い頂いた宮路洋一さんに感謝させていただくとともに、本年もイベントへご来場、参加くださった多くの方々、活動へ賛同いただいておりますサポーターの方々へ感謝いたします。

ゲーム保存協会はゲーム保存活動や研究のみならず、講演などを通じてゲームの歴史を掘り起こし、伝えていく活動も精力的に開催させていただきたいと考えております。こうした取り組みはサポーターの皆さまからのご支援により実現するものです。これからも活動を継続できるよう励んでまいりますので、今後ともご協力の程どうぞよろしくお願いいたします。

宮路さん、福田さん、
ありがとう!

名ゲームクリエイター内藤時浩さんがゲーム保存協会の名誉会員に加わりました

80年代を代表するゲーム「ハイドライド」シリーズを開発し、今でも第一線のプログラマーとして活躍する内藤時浩さん。日本のゲーム史を代表するクリエイターの一人である内藤さんを、この度ゲーム保存協会の名誉会員としてお迎えする事となりました。
 
ゲーム保存協会では、ゲームソフトやハードウェア、雑誌や書籍などを収集するだけでなく、こうしたものを作っていた当時の第一線のクリエイターの皆さんとの輪も大切にしています。人がいなければ文化は生まれません。名作ゲームの裏には、必ず、一人一人のヒューマンドラマがあるのです。人の足跡を記録し、証言を記録することも大切なゲーム保存活動である、との思いから生まれたのが、ゲーム保存協会の「名誉会員」制度です。
 
ゲーム保存協会には3つの異なる会員制度があります。保存活動全体を年会費によって支える「サポーター会員」、実際の保存作業や団体運営を行う「正会員」、そして「名誉会員」は過去の功績や現在のネームバリューで当協会の保存活動に貢献し、応援を送る特別な会員です。
 
内藤さんは現在、有限会社エムツーにてディレクターとしてお仕事をされています。2018年に行った夏の講演会では、内藤さんはゲストとして多数のお話しをしていただいたばかりでなく、PC-8001+PCG用の新作New CITY HEROのプレイアブルデモも公開していただきました。当協会のゲームを文化として次世代に残すという活動方針への賛同を頂き、この度、名誉会員として当協会への参加をご快諾くださいました。
 
ゲーム保存協会を応援する内藤時浩さんからのメッセージや略歴は、こちらのページでご確認いただけます。
 
名誉会員 内藤 時浩
 
このように、過去ゲーム文化の歴史に貢献された方からの応援は、活動を続ける私たちにとってとても心強いものです。未来にゲームの歴史をしっかりと伝えていくために、一つでも多くの資料を残し、一人でも多くの方と協力して取り組みたいと考えているゲーム保存協会。取り組みへの参加方法は様々です。今後も名誉会員に参加いただける方が増えるよう、透明性を保った団体運営と真摯な活動展開を維持してまいります。
 
どうぞ、今後のゲーム保存協会の取り組みへのご注目、そしてご支援ご協力をよろしくお願いいたします。
 
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写真:Nicolas DATICHE