ゲーム保存協会の理事長であるジョゼフさんと知り合った当初、「後世に残すべきゲームとそうでないゲームは誰がどのように区別するのか?」と質問したのですが、彼の答えは私の目を大きく見開かせるものでした。
「すべてのゲームを残します。今の時代に価値が無いと思われたゲームが後世に価値を見出されるかもしれないから。同じ理由で、ゲームだけでなく、パッケージやマニュアル、当時遊んだ人のテクニックや記憶もすべてがゲーム保存の対象なのです。」
その方がかつてPCエンジンと関わりがあると知ったのは私が入社して間もない頃でした。しかし私にはインタビューをまとめたり、ライターとして文章を発表した経験が無かったこともあり何もせず20年近い月日が流れていたのです。
インタビューで特にお伺いしたいと考えたのは、NEC側から見たPCエンジンの企画についてです。私の知る限り、世に出ている記事はどちらかと言えばハドソンによる技術寄りの話が多いと感じていましたので、今回はその穴を埋めたいと考えました。
■パソコン、ゲームとの関わり
沼: パソコンやゲームには学生時代から興味があったのでしょうか?
K氏: 当時はNECのアルバイトでデモソフトのプログラムを書いたりプログラマー向けのテクニカルな解説書を執筆したりしていたから、大学卒業後は、その流れでNECに入社、パソコン事業担当部門に配属されたんだ。
高校時代からコンピュータに興味を持ち、日本だけでなく海外のパソコン雑誌も読み漁り、大学に入ってからは、アマチュア無線とコンピュータを扱う研究会に所属。入学して間もなく、NECからPC-8001が発売されるとすぐに買ってしまったという。
沼: ちょうどパソコンが立ち上がる時期ですね。
K氏: でもパソコン黎明期を立ち上げたさらに上の先輩方の世代から3~4年・・・一世代遅れたんだよね。
沼: ゲームには興味ありましたか?アーケードなどはいかがですか?
K氏: インベーダーゲームなど、よくゲームセンターに通っていたよ。お金がかかってしかたがないから、PC-8001を買ってからはブロック崩しや麻雀ゲームなど、自分でゲームを作って楽しんでいたよ。
■入社 ~ PCエンジンの企画前夜
沼: NECに入社してからはどのような業務をされていましたか?
K氏: 入社は旧パソコン事業部。装置側を作りたくて。3rdパーティーと相談して、次はどんなアーキテクチャにしようか、音が弱いから強化しようとか、そういう話をしていたよ。
沼: スプライトの強化はどのようにお考えでしたか?
K氏: コストとLSIの関係でスプライトは積まなかったけど、16ビットパソコンになったPC-88VAのときはガリガリのスプライトアーキテクチャだったね。
沼: ファミコンは遊びましたか?
K氏: 発売されて会社ですぐに買って試してみたね。コンピュータって名前がついていたからね(笑)。もちろん自分でも買ったよ。
1年の半年は商品企画、残りの半年はシステム周りのプログラムを書くといった業務サイクルだったそうだ。転機は入社3年目の1985年。個人用パソコン部門がNECホームエレクトロニクスにまとまりK氏は出向。パーソナルインテリジェンス事業部の配属となる。
NECグループ内で個人向け製品はNECホームエレクトロニクスの分担だから家庭用ゲーム機をやるには動きやすい状況になった、というK氏。1985年はスーパーマリオもでてゲーム市場が温まってきた頃でもあったという。
K氏: これはまだあまり記事になっていない話だと思うけれど、この年、旧NEC本社ビルの一室を借りてゲーム機事業参入のタスクフォースが結成されたんだ。セールスの人と自分と、あと二人。4人のメンバーで3ヶ月ほどゲーム機事業参入の検討をしていた。
ファミコンは何で成功したのか?何が足りないのか?ビジネスモデル含めてリサーチした。
午前中はスーパーマリオを遊んで(笑)、午後はソフト会社をまわってヒアリングしてシナリオを考えた。ファミコンを超えるゲーム機はどうあるべきか、NECとして発揮できるコアコンピタンス(強み)は何かと。
結論は、まずビジネスモデルはパソコンの延長ではダメだということ。ソフト会社を囲い込んでロイヤリティビジネスにする必要がある。
あとはファミコンと比べて一目で違いがわかる表現力が大事で具体的には画像とサウンド。CD-ROMはNECホームエレクトロニクスが立ち上げていたからこれを使おうと。
沼: 1985年の時点でCD-ROMが挙げられていて驚きました。ゲーム機事業参入はその後すぐに動き出したのでしょうか?
K氏: 我々は装置屋さんでゲーム機を作るには当時で言うプロセッサー屋さんとソフトウェア屋さんとの協業が必要だから、タスクフォース解散後は上層部が1年ほどパートナーを探していたよ。
たまたまハドソンも同じようなことをやっていて、ハドソン、セイコーエプソンと組むことになった。パートナーがみつかったからやろう、ということでまた検討に加わることになった。
ハドソンはファミコンのソフトを作っていたからファミコンを知り尽くしていた。
そこに我々のCD-ROMを加えようということ。
■PCエンジンの企画と開発
沼: そもそもですが、PCエンジンという名前の由来をお聞きしてよろしいでしょうか?エンジンはコア構想のエンジンという意味だと以前何かの記事で読みましたが、PCはやはりNECらしくパソコンのPCなのでしょうか?
K氏: PCはパーソナルコンピューティングの意味で、ゲームだけでなくリビングで幅広く活用してもらいたいという意図があった。
沼: PCエンジンは特にアーケードの移植に強いマシンというイメージがありました。この点は意識されていましたか?
K氏: アーケードというよりもNECがこだわったのはCD-ROM。ファミコンと一目で明らかに違うレベルの表現力を、コストの枠内でどう実現するか。
沼: セガのメガドライブが当時のアーケードアーキテクチャをベースにしていたのと比べるとPCエンジンはユニークでしたね。
K氏: アーケードは高価なメモリをじゃぶじゃぶ使うけれど、家庭用でそれをやったら価格が跳ね上がってしまう。スプライトなどのアーキテクチャはハドソン側が決めたけれど、彼らなりの知見で当時ベストな設計をしたと思う。
沼: 当時、定価24,800円はファミコンよりも高めの値段に思いました。
K氏: 24,800円ではハードの儲けは無かったね。ソフトウェアのロイヤリティ収入があったからなんとか価格を下げられたけど、もしハード単体で開発費も回収しようと思ったら、おそらく5万円とか7万円になってしまっただろう。
■PCエンジン発売後 : ハードウェア
沼: PCエンジンといえば、いろいろな本体のバリエーションが特徴的でした。例えばスーパーグラフィックスなどはメガドライブやスーパーファミコンを意識されたのですか?
K氏: バリエーションを用意したのは、ただ単にグレードを松竹梅で用意しようというNECらしい発想の結果であって、他社のゲーム機のSPECはあまり意識していなかったな。
沼: PCエンジンを内蔵したシャープのX1ツインなどは、なぜNECのパソコンで内蔵しないんだろうと思いました。
K氏: パソコンに内蔵するとマザーボードを複数開発する必要があり手間がかかるから、そのかわりPCエンジンを内蔵したパソコン用モニタを開発してこれ1台でカバーしようと考えた。X1ツインとは住み分けできていたんじゃないかな。
沼: LDロムロムも変り種として印象深いです。パイオニアの製品ですけどNECホームエレクトロニクスからも出ていたそうで当時はどのようなスタンスでしたか?
K氏: LDロムロムの発売は自分が離れた後だったけれど、当時はやれることは何でもやろう、ポストファミコンだと、いけいけドンドンだったよ。
沼: PCエンジンの事業で、特に盛り上がった印象に残る時期はありますか?
K氏: うーん。特にいつが盛り上がったというより、じわじわとずっと右肩上がりが続いていた印象かな。PCエンジンの雑誌がいくつも創刊されて、テレビでも露出が増えて・・・と。
沼: 熱いですね。
K氏: 業務の2割だけどね(笑) 本業はパソコン。
沼: 2割でそれだけ濃密なのはうらやましいです(笑)
ゲーム機の企画は業務の2~3割で本業はパソコンと言うK氏は、当時PC-88VAを企画し同機のBASICインタープリタを書いていた。PC-88VAは知る人ぞ知るスプライトを搭載した16bit機であり、まさにゲームのためのパソコンである。
沼: 自社でゲーム機をやってよかったと思いますか?
K氏: もともとパソコンをゲームマシンとして仕立て上げてきた歴史があるからね。PC-8801mkIISRのときはガリガリにゲームを意識したよ。
沼: PCエンジンもその系譜なのですね。
■PCエンジン発売後 : ソフトウェア
当然のことだがソフトウェアは核心的要素である。ハドソンがついていたとはいえ、ソフトウェアを社外に丸投げはできないとNECグループでNECアベニューを設立するなどの手を打った。そしてキーとなるメーカーとしてコナミの名前も挙がった。
沼: 私は当時メガドライブ派だったのですが、コナミがグラディウスなどのキラーソフトをPCエンジンにばかり投入したのが悔しくてたまりませんでした(笑)
K氏: コナミ参入はハドソンルートだった。ハドソンとコナミは当時から関係が深かったから。当時はサードパーティにランクがあって、コナミはサードパーティの中では契約条件などが特に優遇されていたね。
沼: PCエンジンではスペースハリアーなどセガの看板タイトルが発売されました。
K氏: 自社ブランドで出すリスクをとれないとか、オトナの事情で出せないとかの場合は、アベニューが受け口になっていたね。
■PCエンジンの収束
市場の一角を占めるに至ったPCエンジンだが、時代は次世代機へと移ろうとしていた。K氏は1991年、PCエンジンの完成形だというCD-ROM内蔵のPCエンジンDuoを担当し、その後のシナリオをまとめてからNEC本社に復帰した。
一方のパソコンもPC-88VA以降の16bitはNEC本社のPC-9801に集約する方針が固まったため、PC-98DOを企画して社内の88のリソースを統合する道筋をつけた。
沼: コア構想には様々な可能性があったと思います。何かやり残したと思うことはありますか?
K氏: PCエンジンは家庭向け端末としての広がりの可能性を示すことができたと思うが、当時は他に通信もやりたかった。例えるなら任天堂のWiiのようなリビングルームで通信も融合したマシンかな。
ちょうどパソコン通信からインターネットに切り替わる時期にあたってしまいタイミングが悪かった。テレビに向かってネットをする、コミュニケーションするというにはまだ少し早かったね。
沼: たらればの話ですが、PCエンジンが海外でもっと成功していればビジネス判断として次世代機を続けられましたか?
K氏: 次世代機ができなかったのは単純に、ゲームソフト会社をひきつける、ゲーム機に適した3Dアーキテクチャを開発環境も含めて提案できなかったからに尽きる。パソコン用の3Dをそのままもってきてもダメ。
そういうパートナーと組む必要があったが見出せなかった。アライアンスはただ組めばよいというものではなく、PCエンジンのときのCD-ROMに相当する武器がこのときは無かった。
■PCエンジンとは : 総括
沼: PCエンジンを総括するなら、どのように言うことができますか?
K氏: うーん。どういう観点で言うか難しいけれど。少なくとも、あれがあったからNECホームエレクトロニクスが5年間は延命できたと思う。
当時、家電事業がどんどん台湾や東南アジアに移って、何か新しい、日本でしかできない事業を興す必要があった。ゲーム機という選択肢は当時としては正解だったんじゃないかな。
沼: まさに企画の本懐ですね。
本日はお忙しいなか、貴重なお話をありがとうございました。
K氏が担当されたPC88シリーズの話題のあまりの興味深さに思わず話がそれつつも、PCエンジンの熱い記憶をお伺いすることができました。インタビューの記事をまとめることは初めての経験でしたが、取り組んでみて本当に良かったと思います。