ポイボス
PART1 ~脱出~by 古い男氏


ZAT-SOFTより1983年11月に発売


僕も私も

 あれはいつの頃だったか、老舗のパソコン通信会社Niftyserve(現@Nifty)にあるプレイステーション会議室の中で、「プレイステーションに移植して欲しいソフト」というお題が振られた事があった。未だプレイステーションが登場して間もない頃だったので、移植希望には他機種の蒼々たる有力ゲームが名を連ねていたが、その中に、一体誰が言い出したかは定かではないが、ポイボスPart1の名前が出た事がある。

 このゲームを知らない恐らく殆どの人には、何かの冗談とも取られかねない発言ではあったが、その時私は
「そうそうそうそう」と力一杯肯き、ログに向かって思わず拍手を送ってしまった。 と同時に、自分以外にも未だにポイボスを憶えている人が居ると思うだけで、何だか無性に嬉しく感じたものだったが・・・

 ・・・ところが驚いたのはそのあとである。 その発言に
「僕もそう思う」「私もそう思う」といった同意見が次々とアップされたのであった! ・・・いやはや、確かにあの作品の面白さに対しては、自分自身疑う気持ちなど微塵も持ちあわせてはいないが、それよりも、こんなにも多くの人が同じ思いを持っていたポイボスというゲームに対して、改めて感心せずにはいられなかった。 あの、どちらかというと地味、いや貧相な画面のゲームが、十数年の時を経ても未だに多くのプレイヤーから高い評価を得ているのは何故か・・・むしろ、その疑問の方が日増しに強くなっていったのである。

 そんな訳で、このゲームには思い入れが特に強い私だったから、ポイボスをもう一度プレイするチャンスを得る事が出来たのは至上の幸運だと思っている。 それならばいっその事、この不思議な魅力を持つポイボスというゲームについて、あのゲームの一体何が魅力だったのか、この場をお借りして色々な考察を巡らせてみたいと思った結果がこのレビューである。
 軽い気持ちで書き始めたら、思いの外長くなってしまったが、それでも心して読んで戴ければ幸いである。


みんな若かった

 ポイボスというゲームは、いわゆるロールプレイングゲーム(以降、RP-Gと略)と呼ばれるジャンルだが、本作が登場した1983年後期~84年初頭にかけては、丁度、国産RP-Gの黎明期だったと言えよう。

 他のジャンルとしては、従来からの主流であるアクション系に加えて、アドベンチャーゲームに最もパワーのあった時期だったと記憶しているが、一方RP-Gは未だ各社様子見の感が強く、あの名作
「The Black Onyx/B.P.S.」を除いては、「Dungeon/光栄」 「ぱのらま島/日本ファルコム」 「聖剣伝説/コムパック」といった、余力のある大手や海外ゲームの代理店、投稿雑誌系販売元からの製品がいくつか存在しているだけだった。 この頃は、RP-Gというジャンルについては海外での隆盛を伝え聞いていたとは言え、まだまだApple][は高嶺の花で英語という壁も厚く、多くの日本人が「本当にRP-Gってそんなに面白いの?!」といった疑問を内懐に抱えてた、そんな時代だったのである。

 この内、
「The Black Onyx」は純粋な国産と呼ぶには些か抵抗がある上に(つまりはそれだけ突出していた)、一方オリジナリティがありゲームとしても出来が良かったのは「ぱのらま島」ぐらいで、他の作品はと言うと、ただだだっ広いだけだったりとか、画面から想像で作ってみました的な感じが否めないとか、本当は良く分かっていないんじゃないの? とつい疑ってしまう様な作品がまだまだ多かったのである。

 そんな中、本作は比較的早い時期に投入された割にオリジナリティ要素が強く、着眼点も独特で設定もSFチックであり、とりわけ
「時代は今、ロールプレイング」という迷キャッチコピーからして他とは明らかに違う異彩を放っていた様に思う。
 制作者はこういったゲームに経験が浅いか、もしくは全く知らなかったのではないか?と思わせるような、パッと見は冴えないが兎に角
変わったゲームというのがこの作品に対する印象であった。
 私も何となくプレイし始めてはみたものの、未だ経験が浅いRP-Gというジャンルに対して
偏見がアリアリで、正直言ってこのゲームには何の期待も抱いていなかった事をここに白状する。 その少し前にプレイした「Dungeon」も、単にキャラクタが成長する迷路ゲームといった趣が強く、それはそれで楽しかったものの、少々ピントがずれていたというか期待はずれであったからして、それがまさか生まれて初めてゲームで徹夜という事態を引き起こす事になるとは、あの時は夢にも思わなかったものだ。


ポイボスだから面白い

 では、そのポイボスにハマってしまった理由に付いて、いくつか考えてみよう。

 本作の面白さの理由として一番簡単に思いつくのは、
本作がRP-Gだから、というのがある。
成る程、確かに出来の良いRP-Gには、一度始めるとなかなか止められなくなるという麻薬性があり、それは既に周知の事実であるからだ。 実際それこそが、今日の日本コンシューマ市場におけるRP-Gの隆盛を形作っている訳であるが、それでは「ポイボスの面白さは、それがRP-Gだったからなのか?」 と問われると、私の場合は少々
異議を唱えたい。
 勿論それもあるが、他にも様々な理由があると思われる・・・他の様々な要素が複雑に絡み合った上で生まれたバランスの奇跡・・・そう、
ポイボスは、ポイボスだから面白いのである。


水面下の白鳥は

 それでは先ずゲームの第一印象と言っても良い、画面構成から見てみる事にする。

 ポイボスのメイン画面には、ゲームを進めるのに必要な情報がほぼ全て表示されているが、
名前体力、そして武器の残量と、それらから導き出される総合的な戦闘力があるだけで、総量としては決して多くない。 これを見た私は当初、このゲームを簡素化された単純なRP-Gと思ってしまったが、実はこれが曲者だった。 一見して単純に見えたそのゲームの内部では、プレイヤーの見えない部分で想像以上の計算が行われていたのだ。

 表に出ない裏のパラメータが、少なくとも倍以上はあると思われ、そして、それによって導き出された数値に対する各種判定基準が異様に細かく、作り手の性格を垣間見る思いである。 あるいはシミュレーションゲーム通だったのかもしれない。
 単純な
移動敵遭遇、そして逃亡(このゲームでは逃亡は日常茶飯事である)、逃亡失敗といった一連の行為に、細かな判定が黙々と繰り返されていた舞台裏の姿には、正に職人気質なゲームと言えよう。
 今考えると、あのノロノロとした画面書き換えに良く飽きもせず付き合っていたものだと思っていたが、実はプレイヤーを程良い緊張状態に置く絶妙な味付けであったというのは、私のひいき目であろうか。 それに加えて、いざ戦闘時の計算ともなると、それに輪をかけて細かな命中判定や士気判定、戦闘力計算が行われていた。

 そう、これは
シミュレーションゲームでもあったのだ。
少なくとも、判定1つ取っても当時の凡百のシミュレーションゲームに勝るとも劣らない判定式が使われている事は確実である。 そういった制作者のこだわりが、単純な文字だけによる戦いの中に、多くの想像力を働かせる余地を与えたのだろう。


際だつキャラクター

 次に、本作におけるもう一つの大きな特徴でもある、登場するキャラクター達について述べるが、先ず非常に基本的な部分として主人公ジョーグの設定が、プレイヤーが感情移入しやすいように平々凡々な性格付けがなされている点である。 彼は全く喋らない上、多くの者がその彼の持つカリスマによって、彼を慕い彼の元に集まって来るのだ。 こういった、ヒーロー物としての基本的な部分をしっかりと踏まえているのが、密かに心憎い。

 それに加えて、ヒロインである
リュキアの設定も、地味ながらツボを上手く押さえてあるのも見逃せない。 彼女は美しく、ポイボス星人の長老の孫娘である上、彼女が仲間に加わると非常にゲーム進行の助けになる。 この、「ワタシは戦いの助けにはならないけれど、他の事では役に立つわ」的な奥ゆかしさが、日本男児の持つ遺伝子の琴線にふれるとでも言おうか・・・そう、これは甚だ日本人的なRP-Gなのである。
 暗に
「孫娘と将来結婚=後にポイボス星人の長としてウハウハという匂いを嗅がせているのも大きい。

 そして忘れてはならないのが、単調な物語に様々な彩りを添える、多くの脇役達である。 尤も、多くのキャラクターが登場するとはいえそれは当時の水準の話である故、その殆どは一言二言話すだけで、それ程しっかりとした性格設定がされている訳ではない。しかし、プレイヤーにとって彼らの行動は実に多彩で、理に適っている様に感じられるのは何故か?

 そう、それは、彼らの行動が実に「人間くさい」からなのだ。 強さ弱さを引っくるめた所謂人間くささが、単純な台詞に凝縮されているのである。 大体、一度仲間になった者が自分を裏切ってしまうなど、実生活ならともかくゲームでそんな事が起こりうると当時、誰が考えただろうか?! そういった人間心理の虚を付く各種イベントが、ゲームを飽きさせない為の驚きとしてプレイヤーの目に映ったのではないだろうか。

 さらに、プレイヤーを助ける「仲間」との出会いに関しても考えられている点が多い。
ポイボスの世界では、プレイヤーは
脱走者、いわば「敵」である。 しかも「弱者」でもある為、治安維持に就く職業軍人以外にも、タダの民間人までもが徒党を組んでプレイヤーに襲いかかってくるのだ。 まるで「ARMS/作・皆川亮二/少年サンデーコミックス」でのレッドキャップスによる市街地テロシーンを彷彿とさせるが、そういった心細い状況の中、必死で敵対勢力から逃げ回る果てに、ふと、仲間と出会う喜び。 「一緒に戦いましょう!」 ・・・そのありきたりな台詞に、プレイヤーはグッと勇気付けられるのであった。

 単純な8bitマシンによる人間ドラマ、その殆どはプレイヤーの
「想像力」に頼る部分が大きいが、その辺りを差し引いても「それぞれに事情を持つ(であろうとプレイヤーが勝手に想像した)人々との関わり合い」でストーリーが進行していく・・・
 そう、これはアドベンチャーゲームでもあったのだ。


想像力と思いこみ

 一般論として言える事だが、「人間はイメージを提示されないと、勝手に想像してしまう生き物だ」ということである。

 TVの音声だけを聞いていて、声から勝手に外見を想像し、実際見てイメージが違いガッカリした事はないだろうか? 小説を読んでいて、それが実写化された時に、配役に不満を持った憶えはないだろうか? それと同じ事が、ゲームに対しても言えると思う。

 昔、徳間書店から発行されていた
「テクノポリス」というパソコンゲーム雑誌に、RP-Gの2大巨頭の1つ「Wizardry/サーテック/Apple][」をテーマにした読者参加企画、「Oops! ウィザードリィ!」が連載されていた事があったが、驚く程の長期間に渡って様々な投稿者に愛された企画であった。かようにビジュアルに欠けたゲームでも完成度が高ければ、プレイヤーは勝手に想像力を膨らませるのだという典型的な好例である。

 ここで誤解されては困るのだが、現在のゲームにおけるビジュアル至上主義を否定するつもりは無い。 ゲーム進化の究極として、そういった次々世代機には頑張ってもらいたい。 しかし、ある程度固定化されたイメージがある場合において、そのイメージを大きく逸脱した解釈をするのは常に賛否が付いて廻る。 ところが、小説などの人間の想像力を上手く利用するいくつかの媒体は、何もないが故にイメージの枷が取り除かれる。 逆に文字だけのシンプルな世界だったからこそ、読み手はそこに無限の世界を見るのだ。

 勿論、ポイボスの時代は、ああいったキャラクターベースのゲームがまだまだ多かった時代ではあるが、それでも当時のパソコンにだって640×200×8色の高解像度グラフィック表示が可能な時代、各社はこぞって美しい画面を生み出すことにしのぎを削っていたのであった。 そんな中にあって、あくまでゲーム内容にのみリソースを注ぎ込んだゲームデザインには注目に値すると思う。 もっとも、タイトル画面を見る限り、単に絵心が無かっただけかもしれないが・・・(失言)

 このゲームのキャラクター展開について、もう一つ補足しておきたい事がある。
本作の登場人物の具体的な容姿については、主人公とヒロインのみが広告等に描かれているのみであったが、1984年初めの雑誌広告に突然1ページ広告が登場したことがあった。
 その広告には主要登場人物の設定と各種状況説明が克明に記載され、特に絵に関しては今までとは
雲泥の差というか、とにかく気合いの入り方が全然違うので、恐らくは多少本数が出て、広告予算が増強された事が窺えて少し嬉しい。(余談ではあるが、私はこの時のポスターカレンダープレゼントが現在でもメチャクチャ欲しい。) この広告が、多くのプレイヤーにとって「想像力の補完」を助ける役割を果たしていた事も、無理なく物語に感情移入を進める上での見逃せない要素だと思っている。

 しかしその一方で、その広告に酷くショックを受けた人物も居る。 当時、毎日の様にウチに通い詰めでポイボスをプレイしていた知人がいたが、彼はテレパシストの有能な女性キャラ
「ジラ」を大変気に入っていた。ところが雑誌に掲載されたジラは、妙なマスクを付けた随分ヘンテコなキャラだったのである。 これには彼もかなりショックを受け、私の「きっとマスクを取ったら可愛いんだって」という慰めも届いてない様であった。 こちらは想像力のすれ違いが生んだ悲劇的な例と言えよう。


ハイブリッド・ゲーム

 今述べた理由から考えられる仮定、それは、「ポイボスが面白かった理由は、シンプルな中に複合的な要素が含まれていたからではないだろうか?」ということである。 もっとも、これはそれなりの考えに基づく結論ではあるが、過去の美しい記憶による単なる独り善がりの意見である可能性もある為、それについては機会があれば他のプレイヤーの意見も是非聞いてみたいと思う。

 しかしある程度この仮定が正しいとすれば、そこから導かれる重要点、それは、
「以上を踏まえた上で、本作は本来の意味でのロールプレイングであったと考えられる。」
「それこそが、十数年を経て未だに支持者が居るというポイボスの魅力ではないか?」
・・・と、ここに私は結論付けたい。

 ポイボスの主人公=プレイヤーはその飽くなき戦いの中で、さながら
大陸横断ヒッチハイク(@電波少年)よろしく、様々な喜怒哀楽を体験する。 他人の志を受け継ぎ、又裏切りにあい、楽しい事、苦しい事全てひっくるめた全てを乗り越え、それが主人公の成長として描かれていくのだ。 そういった、ジョーグという役割を疑似体験すること・・・これこそが制作者が考えるロールプレイング(役割を演じる)ゲームとしての本質、すなわちポイボスのテーマだと思うのだ。

 この手法は、例えば
「Wizardry」が、テーブルトークRP-Gの戦闘のみをシミュレーションしようとしたのとは全く異なりい、かといって「Ultima/ORIGIN/Apple][」のように、可能な限りテーブルトークRP-Gの世界をPCに再現しようとしたアプローチとも微妙に異なっていて興味深い。 しかしながら、当時の限られたコンピュータリソースの中で、本作の取った「主人公の軌跡を自由度の高いシステムで再現する」というやり方は、他の二つに勝るとも劣らないアイディアと思うのだ。 何しろ、この当時こういったRP-Gの本質に関わるテーマに、本気で向き合ったゲームがどれだけあったろうか? 多くのゲームが「キャラクタが成長すればいいや」といった発想で作られていた時代にあって、ジャンルという枠に捕らわれずに、誰よりも本質を追究しようとした姿勢が見える本作は、まるで手塚作品の様に深い存在であると思う。

 勿論、長所ばかりではない。 とにかく取っ掛かりが悪く、それだけでプレイヤーを選ぶゲームであった事は非常に勿体ないと思うし、プログラム的な動作の遅さもいただけない。 加えて、当初発売されたVer.1は早期に回収案内がなされ、今回プレイしたVer.2にも若干のバグが残されているのは、あまり感心できる事では無い。 しかし、こういった欠点をあまり欠点と感じさせないパワーが、本作には存在しているのもまた事実であった。

 全く脱帽である。 この時代にこの希有な作品を世に送りだしたデザイナー氏は、一体どういう人物であったのか・・・ この作品の持つ絶妙のバランスが、果たして計算されたものなのか、はたまた偶然の産物なのか、どちらにせよ、
幻と終わったPart2の構想も含めて興味は尽きることがないであろう。

私の中では、
ネコジャラ氏と並んで是非一度お話を伺ってみたいデザイナーの一人である。


文責:古い男氏 (2000年2月2日改訂)

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