A列車で行こう
アートディンクより1986年1月に発売
ストーリー
時は19世紀、貴方はA国大統領の特命により大陸横断鉄道会社の社長に任命された。社長就任後1年の間に大統領列車を西海岸まで送らなければならない。会社を破産させずに鉄道を延ばすため、貴方はA列車に自ら乗りこみ路線の最前線に立って工事の進み具合を指示し、かつ各列車の運行状態を決定しなくてはならない。無計画に線路を延ばすと後で必ず行き詰まる。この計画の全ての発車のベルが鳴った。(ストーリーをマニュアルから抜粋)
ルール
このゲームではA列車が地図最上部にある大統領官邸まで線路を敷き、大統領列車をそこまで到着させるというゲームである。しかし、A列車もしくは大統領列車が事故(他の客車や貨車との衝突など)で破壊したときや資金(最初に与えられている資金は10万ドル)がなくなったとき、または時間(ゲーム時間が365日)が切れたときのいずれかの場合は「負け」となる。したがって車両事故を起こさないように、ポイントの切り替えや発車時刻の設定を工夫し、計画的な素早い行動が要求される。また、与えられた資金10万ドルでは、とても大統領官邸までは線路を敷けないので、客車をフル稼働してお金を稼がなければならない。街が発展し、売り上げが経費を上回れば、しめたものである。
列車という言葉に惹かれた
「A列車で行こう」というと、デューク・エリントン楽団の名曲「TAKE THE A TRAIN」を思い出してしまうが、このゲームの名前はどうもそこから取ったらしい。まぁそれはともかく、当時列車を題材にしたゲームはなかったと記憶している。これ以前ではスクウェアの「アムトラック」というゲームの広告を見たが、当時「アムトラック」を制作していたスクウェアの青木氏が、「ブラスティ」の開発に回ってしまったことから、発売延期を余儀なくされ、そして結局このゲームは88では発売されなかった。
見た目ではわからない面白さが、いざプレイするとぐんぐん伝わってくる。画面は2D上から大地をみるマップ形式になっており、他に残り資金や列車の発車時刻や駅での停車時間等の詳細画面、この2つの画面しか存在しない、とてもシンプルなデザインである。殆どはマップ画面での操作になる。詳細画面はチェックに使用する程度である。また、操作はテンキーのみで、これまたシンプルである。
「アムトラック」(写真)の広告にもどこか面白そうな雰囲気を感じた。それは単にそのゲームそのものの魅力よりも「列車」という響きに何処か魅力を感じたのではないだろうか。個人的に「Nゲージ」の経験があるが、これは少年のころからのあこがれで、列車を自分の思ったとおりに走らせたり、敷設したりするのはとてもおもしろいことだった。それが自分のパソコンゲームで可能になるというのだから、気を惹かないはずはないだろう。どこか気を惹いたのは、そんな理由からではなかろうか。
ゲームのコツ
プレイヤーは、「A列車」を動かして線路を敷く、資材が切れたら取りに戻って、また敷いていく、線路ができたら駅を作って、今度は客車(5台ある、ちなみに買う資金があっても、5台以上には増やせない)を動かして資金を稼いでいかなくてはならない。何せ列車を動かし線路を敷き、駅を作るにはたくさんのお金がかかるからだ。1秒で1時間が経過していくので、時間がたつのが非常に早い。線路の敷設工事ができるのが朝の5時から夜の7時までの14時間、つまり14秒である。急いでやらないとすぐに時間切れになってしまう。ゲームシステムは極めてシンプルなのだが、リアルタイムで時が過ぎていくので目的を達成するのは非常に難しい。
そう、このゲームはともかく難しかった。黒字にできないか、列車事故を起こそうものならすぐにゲームオーバーになってしまう。要は早く黒字にしてしまうことなのだ。黒字にするには、とにかく客車用の環状線を設けて、適当に駅を並べて、人々を運んでやることなのだ。しばらくすると、人口の全くなかった場所でも建物が建ったり、荒地が開拓されたりして人口が増えてくる。人口が増えてくると列車を利用する人も当然増え、お金には困らなくなる。
そうしながらプレイしていき、最終的には画面最上部の大統領官邸に、大統領の列車を運ぶことになるのだが、1つだけ関門があり、それは山に閉ざされたところのある一点のみ以外に線路が敷けないということだ。そこをクリアし、線路を最終目的地まで敷ければ、全く問題なく終了することができる。ときたま、たくさんの人が乗った列車が先に敷こうとしている線路の場所に建物を建ててしまうことがあり、どうしてもそこを通らなくてはならないときは、厳しいが列車をわざとその建物にぶつけ、道を切り開くしかないこともある。損害も大きいのでかなりお金にゆとりがなくてはならないのだが、逆に十分お金があれば壊してしまった列車分を買うことで解決出来る。
ゲームの長所
流れとしてはこんな感じなのだが、このゲームはなにがよかったのだろう。
まずリアルタイムに時間が経過していくという要素は当時では目新しいものであった。それまでのシミュレーションゲームというのは、大抵時間は待ってくれた。一部アドベンチャーゲームでリアルタイムのものもあったが、シミュレーションゲームでここまでのリアルタイムシステムを導入し、プレイをシビアにしたものはこれが初めてだろう。これにより、今までにない緊迫感と興奮、そして列車を動かす楽しさが生まれてきたといえる。
また、リアルタイム性を有効に利用している部分として、街の発展性がある。自分が敷設した駅を中心に、建物が建ち街が栄えていくのが、リアルタイムで表現されるのである。これは後に大ヒットになった「シムシティ」の原型ともいえるだろう。さらに夜になると街のライトが光ってみえ、当時の新宿の三角ビルの展望台から見た夜景そのもの(?)だった。これも演出効果として十分賞賛に値するものだろう。
余談だが、ゲーム雑誌の難易度評価はよくあることだが、メーカーの広告でこのゲームが難しいと謳っていること自体が珍しかった。しかし、裏を返せば、アートディンク自身がとてもこのゲームに自信があったということもいえるだろう。このゲームの爆発的ヒットによって、アートディンクは一躍有名になり、パソコンゲーマーに広く知られるメーカーとなった。
結論
果たしてこのゲームは何がよかったのか。広々としたマップの上に自分の好きなように線路が敷けるという解放感なのか。それとも自分が作った線路を電車が勝手に走ってくれるというある種、今の育てゲームのような魅力なのか。人それぞれに思い入れの深いゲームであることは間違いないだろう。私自身は夜光り輝く建物や走っている電車がとても美しく感じ、それは言葉にはできないような充実感があったと思う。
A列車を作った人・永浜達郎氏
A列車で行こうを制作したのは、アートディンクのプログラマーでもあり、取締役でもあった永浜達郎氏である。彼がコンピュータに興味をもったのは、大学生のころであった。このころのパソコンといえば、ワンボードの組立キットがようやく売られている頃で、当時のグラフィックはつたないものであった。しかし、「将来もっとよくなる」と思った永浜氏は、たまたまいた理系の友人と2人でいろいろ部品を買いこんで、コンピュータを制作した。もちろんこのころはソフトもないので、自分たちで作っていたという(ちなみにこの友人は元防衛庁の技官だそうだ)。永浜氏たちはこうしてコンピュータを2,3台作ったが、FM-8が発売されるに至って、もう自分たちでハードを作る時代ではないと思い、ソフトの制作に専念していったようだ。
参考:テクノポリス86年
「A列車で行こう」に関連するすべての画面写真、パッケージ写真の著作権はアートディンクに帰属します。
永浜氏は大学卒業後もコンピュータを趣味の1つとして続けていたが、収入はテレビや映画の助監督によっていた。フリーの助監督を6~7年していたという。助監督の仕事はいわば段取り屋で、撮影の進行係の合間にちょっと演出の仕事があったそうだが、けっしてラクな仕事ではなかった。特にテレビの仕事だと2つ以上の台本を同時に進行するのが普通で話がごちゃごちゃになることもよくあったそうだ。
永浜氏はもともと映画に興味があり、子供のころから、その方面の仕事をするのが夢だった。ただ、同時に理科にも興味を持ち、進学するときは、理科系にするか映画の世界に入るかずいぶん迷ったらしい。結局は日大の芸術学部に進み、周りの影響もあって映画の世界に入り込んでいったらしい。一方、理科に関する興味はパソコンに受け継がれ、それが映画の中で生かされることもあった。映画でコンピュータを使える人間というのはまだ少なく、それでいろいろと仕事があったというのである。
永浜氏は仕事の合間にコツコツと作ったソフトをOAサービス研究所のブランド名で売りに出した。これはツールを製作/販売する会社で、アセンブラや各種ユーティリティを販売していた。85年ぐらいになって、永浜氏はゲームでも作ってみようかと考える。というのも、OAサービス研究所が商売として成り立たなかったという理由もあるが、ツールや言語には創造的な部分が少なくて、そのへんに不満もあったからであった。そして映画界から脱け出し、当初4人のメンバーで「A列車で行こう」の発売と同時に設立したのがアートディンクであった。他のメンバーはほとんど高校時代の仲間で、みなそれぞれの分野に進んでいたのだが(防衛庁やデパートや、さまざま)、脱サラしてきたということである。
A列車で行こうは、特に参考にしたゲームがないという。しいていうと、アメリカの「ロボット・オデッセイ」というゲームというソフトを見て、考えさせられる部分があったという。これは半分、電子回路の勉強のようなソフトだった。また永浜氏自身があまりゲームを遊ばないというのも、既成の概念にとらわれないゲームを作ったひとつの要因かもしれない。A列車は半年くらいの期間をかけて制作されたゲームで、永浜氏がほとんど1人で制作したという。ゲームのアイデアの根本にあるのは、「ある現象があり、その現象を利用してなんとかゲームにならないか」という発想らしい。ただ、おもしろおかしく作るのではなく、理論や発見された原理をベースに作りたいという考えの基に制作されている。たとえば、A列車の場合は、ある約束で決められた世界の中で、ユーザーがいくつか種を植えるのだが、そうするとそれが育っていろいろなことが変わってくる。そういうキレイにまとまった世界を作るのがA列車の世界だということだ。ユーザーが手を加えたものがいつまでたったもその要素を保ち、最後までゲームに影響を与え、ゲームに勝ったり負けたりする。何か良くないことがあれば、最後までたたって、それが原因で負ける。勝っても負けてもすべてユーザーの責任なのである。
列車を使うというアイデアは、ゲームを作っている途中から出たそうだ。電車が走るとか、鉄道が通ると周りに家が建つとか、そういうものはすべてあとからついたものだという。こういうゲームの作り方は珍しい。永浜氏のスタイルというのは、最初はそういった世界を構成できるかということからスタートし、その規模とか、演算速度とか、スケールの大きさとかを考える。そしてそれがシミュレーションの核となる。たとえば、電車ならば1度動き出すとどの電車がどの段階でどのあたりを動いているかを随時計算しながら、画面に表示していかないといけないので、そうしたシステムを核として作り、そして外側に、もしこういう条件になったら、こういうことをやる、ということを付け加えていくというのだ。実際永浜氏はゲームの周辺部をあまり重視していないようで、その関心はもっぱら核にあるようだった。A列車がそれまでのシミュレーションと毛色が違っていたのも、永浜氏の考え方とゲームの作り方から生まれた産物といえるだろう。
永浜氏の写真 電視遊戯大全より引用
協力:ギニュウ氏