怨霊戦記
Review


◆ WING

ファンにとっては残念なことだが、物語を創る時、普通オカルトという分野は避けるものだ。もちろん材料としてはよく使われるが、根本に据えることはめったにない。それはオカルトの持つうさん臭いイメージを嫌って、もしくはビリーバーと呼ばれる熱狂的すぎる信者を恐れてのことだろう。しかしSOFT-STUDIO WINGは、設立から解散まで、そのうさん臭い題材を作品にし続けた志あるメーカーだった。

WINGは元々MSX市場でのみ制作活動を行っていたが、1987年の『魔界復活』をきっかけとして、88を代表とする様々な機種にマーケットを広げていった。WINGのオカルティックな作風はMSX時代からのもので、この頃の作品には『白と黒の伝説』シリーズという、それ以後のWINGの基礎になった重要な作品が存在する。

オカルトいってもその分野は様々だが、MSX時代を含め、WING作品の題材のほとんどは「超能力」という一点に絞られている。しかしその中で怨霊戦記は――事実上超能力合戦になっているとはいえ――趣向を変えて「心霊」という新しい分野に挑戦した意欲作で、ファンの間で最も支持された作品になっている。

怨霊の姿は純和風で、日本人に根差したものになっている。

◆ 推理について一考

このゲームの目的は、事件の犯人である生霊を探し出し、怨霊による町の支配を阻止することだ。しかし物語序盤に登場するある謎めいた人物は、どんな鈍感な人でも犯人だと気付いてしまうほど目立っており、プレイヤーが推理する余地はどこにもない。それに犯人の正体が主人公の探索の積み重ねではなく、犯人自身の登場によって明らかになるという点も、推理を無意味なものにしてしまっているといえるだろう。

序盤から登場する鳴神恭介。この神秘的な雰囲気を持つ男に出会うこと自体が、怨霊戦記の一つの楽しみにもなっている。

これは一見欠点のようで、実際それを問題として指摘するファンもいる。しかしこう考えることはできないだろうか。これらは「推理は見るべき点ではない」という制作者からのメッセージだと。実際プレイ中、犯人の正体について、意図的にそうと分かるように仕組まれているのではないか、と感じる点が多い。それでは、このゲームの「見るべき点」とは一体なんなのだろう。

◆ 人々

序盤、世間は「怨霊などいるわけがない」という態度をとっており、「分かっている人間」の間だけで事件は進行していく。しかし怨霊は頻繁に出没し始め、警察や市もこれを無視できなくなる。そしてそのような公共の機関が実際に怨霊について言及をし、社寺連合も対策に動き出すような大掛かりな事件に発展していく……と、ここまでは他の多くの物語と同じで、展開としてはよくあるものだ。しかし怨霊の存在が疑わしいものではなく、実在するごく当たり前のものになるにつれ、この作品は他の物語と一線を画し始める。

怨霊戦記では、この様な状況になっても超自然的な闘いや恐怖表現に終始することなく、依然として人々が通常の生活を送っているのが描かれている。世間はただ怨霊を恐れるだけではなく、今まで通りデマや責任感のないマスコミに躍らされ、些細なことに悪態をつき、金儲けの算段をする。現実の向こう側の存在だった怨霊が、不可避のものとして生活に入り込んでくるにつれ、ごく身近な日常の問題へと変化していくのだ。存在しないはずだったものを否応なしに目の前に突きつけられ、価値観を破壊されても状況に適応し、人々は生きていく。この人々の対応こそが、このゲームが表現したかったものなのではないだろうか。

「今夜は怨霊が出るらしい」。根も葉もない噂に躍らされる宮寺市の住民たち。結局彼らは何も変わっていないのだ。

◆ 現実の感覚

このように常に町の人々が生活している様を描くことによって、「怨霊がいることが常識である現実世界」が俄然リアリティを持ってくる。それは日本のどこにでもありそうな「宮寺市」という町を舞台にしていることも拍車をかけているといえる。プレイするにつれ、あたかも自分が町の一員であるかのような錯覚を覚え、主人公の知人はもちろん、町で見かける人や噂好きなマンションの管理人にも親近感を持つようになるだろう。これら以外の人々も常に町で「生きている」ことが感じられ、そして町自身も「生きている」と感じられるのだ。これはゲーム後半で、人が消えていき、「町が死んでいく」ことを感じるのにも役立っているといえる。

◆ 現実主義

WINGの作品に共通していえることだが、ゲーム中で何度も私利私欲に走る政治家や企業家、そして世間の人々を批判し、気恥ずかしいまでにストレートな表現で「愛」の大切さを説いている。こういうと普通「努力する者、清い心を持つ者は必ず報われる」というようなストーリーを思い浮かべるだろう。しかし怨霊戦記ではそのような甘い世界観は完全に否定されている。

ゲーム中盤の「怨霊退散儀式」では多くの犠牲者を出すのだが、法力者もそうでない人も、霊を信じる人も信じない人も、善人も悪人も、誰彼関係なく死んでいく。怨霊を怪しいオカルトとして疑っていようが、対岸の火事と思っていようが、もちろん深刻な事態だと認識していようが、降りかかる火の粉自身にとっては、その人の立場など何の関係もない。この宮寺市という閉鎖空間では、客観というものはありえない――つまり全員が当事者であることを嫌でも認識させられてしまうのだ。

全ての人が巻き込まれていく。この後、この場所には死体が累々と並ぶ。

このシビアな現実認識は主人公である北原の性格にも表れており、アメリカのテレビドラマによくある、「主人公の間抜けさによって問題が生じる」というようなことが全くない。どんな時も冷静沈着で、自分の友人が惨殺されようとも、慌てることなくその場の状況に合った的確な行動をする。しかし已むを得ず人を殺めるシーンで、何のためらいもなく呪文を唱え、事の後に何の感想も述べないというのは、少々表現が行きすぎているような気もする。

◆ システムとストーリーの壁

ゲームシステムはどこにでもあるようなコマンド選択式アドベンチャーで、それについて特に言及する必要はないのだが、一点だけ、なかなか興味深い試みが窺える部分がある。

主人公にとって、アパートの自室と町の行き来をすることが主な日課になるのだが、普通ゲーム中、プレイヤーは部屋での「外に出る」という選択肢を、ただシーンを移動するためのコマンドとしか捉えていないだろう。もちろんセーブを行う「情報を記録する」など他のコマンドも同じで、全てゲームのシステム的な存在である。しかしある時、そのコマンドを選択すると、いきなり(ゲーム中の)コンピュータがおかしな動作をし始め、霊界からのメッセージを画面に映し出すのだ。ただシステムコマンドを実行したつもりのプレイヤーは、いきなりストーリーの中にたたき込まれることになるだろう。これは、システムとストーリーの間にある明確な境界を打ち崩す試みだといえる。プレイヤーはこれによって、表示されるメッセージだけが物語なのではなく、プレイヤーのコマンド選択そのものもストーリーの一部であると認識することになるだろう。

突然現れるメッセージ。これに驚かなかった人はいないだろう。

◆ 再び

ゲームの世界では様々なストーリーが創作され、我々はそれを大いに楽しんでいる。しかしその多くは物語のための物語であり、あくまでエンターテイメントとしての存在でしかない。もちろんそれはゲームにとって良いことであるし、それこそが物語の本道であるともいえるのだが、そればかりではつまらないと感じることはないだろうか。WINGは、このようなゲームの世界で何かを訴えかける作品を作り続ける貴重な存在だったが、もう解散してからずいぶんになる。しかし今年(1999年)になって、復活の兆しが見え始めたようだ。この世紀末、WINGに最もふさわしい年に、復活が果たされることを切に祈っている。


文章:飯沼薫氏

「怨霊戦記」に関連するすべての画面写真、パッケージ写真の著作権はソフトスタジオWING(現タケダ企画)に帰属します。