1982年以前のパソコンゲーム
ゲームに惹かれた人たち
1982年以前のパソコンゲームの歴史を簡単に振り返って見る。
世界初の本格的コンピュータゲームは、1962年頃に米国マサチューセッツ工科大学でコンピュータグラフィックスを専攻していた学生、スティーブ・ラッセルによって生みだされた。「スペースウォー」(写真)と名づけられたこの宇宙戦争ゲームは、モニターの前に座った2人のプレイヤーが外部装置のスイッチを操作して互いに攻撃しあうというものであった。このゲームは、真っ暗なモニターの中に存在する相手の宇宙船を攻撃するという単純なものだったが、自分の手で自分の宇宙船を操作し、相手の宇宙船を破壊するという、まるで映画の宇宙戦争を思わせる小世界を擬似体験できたのであった。ただし、このゲームはごくわずかな人々のあいだのみでプレーされていたに過ぎない。
それからしばらくして、1972年後期にATARI社から業務用ゲームの「ポン」(写真)が発売され大ヒットし、テレビゲームを確立した。ポンは、日本でいう「テニスゲーム(壁打ちテニス)」(棒の形をしたラケットが左右にあり、ボールを打ちあうタイプのゲーム)のことである。
「スペースインベーダー」(写真)は、地球を侵略しようとするインベーダーに対して、自分の手で砲台を動かし、迎撃するというゲームだ。インベーダーの形は今見ると粗いものだが、当時の人々にとっては得体の知れない、異質な物に見えた。その物体が「ブッブッブッ」という音ともに、雨後竹林のようにミサイルを発射し、下へ下へと不気味に侵略してくるのだ。"人類"と"侵略者"の戦いが小さな画面の中で再現され、しかも侵略者を自分自身の手で打ち砕かなくてはならない。「スターウォーズ」のような映画を見ているときの"受け身"とは違う。やるかやられるか、自分が"能動的"になってプレーが進行していく。このようなタイプの娯楽は、当時の人々にとって非常に新鮮であった。
ゲームに惹かれた人たちは、インベーダーゲームのような小さなディスプレイの中の擬似体験で、自分が中心となってゲームを進め、そのゲームを征服していくという快感を味わっていたのだろう。敵を撃滅することで得られる満足感、達成感、優越感を感じていたのではないだろうか。
その快感と満足感を追い求める人たちは、インベーダーとは別の擬似体験をさらに求めていく。ある者は、そのままゲームセンターに居続け、新たなるゲームに挑戦していく。またある者は、家庭用のゲーム機(業務用より表現力は数段落ちるが)で、コインを入れずにプレーできる疑似体験に没頭する。お金持ちで欲張りの人は両方を追いかけたかもしれない。そしてもう1つの道「マイコンゲーム」へ進むものもいた。
さらに1978年には日本で「スペースインベーダー」が社会的現象になる程大ヒットを記録した。
マイコンの登場
日本にマイコンが登場したのは、スペースインベーダーが流行する前である。1976年に、NECから「TK-80」(写真)というマイコンキットが発売され、初のマイコンの専門雑誌「I/O」(工学社)が創刊した。このころから日本に「マイコン」という言葉が巷で聞かれるようになった。ただ、この時代はマイコンといってもきちんとしたケースに入ったものは非常に高価であり、キットやチップを購入し、回路図を見ながらシステムを自作するのが一般的であった。このころのマイコンは、CPUがインテルの4004(4ビット)といった第一世代から、8080,6800(8ビット)といった第二世代に移行しつつあり、面倒な周辺回路も次第にLSI化されて、ようやく個人でもマイコンを楽しめようになってきた時代である。しかし楽しめるといっても、回路図をみてハンダづけをするので、現在のAT互換機の組み立てなどとは違い、ある程度のハードウェア製作のスキルが不可欠であり、ごく限られた人だけの楽しみであった。
当時のコンピュータは、現在のようなCRTとキーボードを使ったものではない。弁当箱のようなものを想像するとよいのだが、大きさは週刊誌程度、厚さは3センチ程度。たくさんのスイッチとLED(電卓にあるような数字の液晶板)がならんでいる。(写真はTK-85)
プログラムはCPUを停止状態にしておき、スイッチで1バイトずつ根気よく書き込んでいく。スイッチは16進の押しボタンではなく1ビットに1個ずつついている、2進のスイッチである。だから1バイト書き込むには、2進のアドレスを設定し、2進でデータを設定し、書き込みボタンを押す。かなり面倒な作業である。プログラムは、LEDが左から順に点滅していくという具合に実に単純極まりないものであった。もっともメモリが512バイトしかないシステムでできることといったらそんなものであった。
次第に贅沢になってくると、メモリを1KBに増やし、DAコンバータにオシログラフをつなげて、画面に点々を表示させたり、ボールペンを材料にしてライトペンで入力できるようにしたり、電動タイプライターにつなげてプリントアウトがとれるようになった。このころになると山くずしゲームや数字当てゲームなどができるようになり、多少表現力も豊かになった。
マイコンでゲームを
マイコンでディスプレイに表示するためには端末(ターミナル)用のインターフェイスが必要だった。ディスプレイがなくては、マイコンとして機能しないのではないかと疑問に思うかもしれないが、何も表示はディスプレイではなくとも、前述のようなLED(電卓にあるような数字の液晶板)にいろいろと表示して遊んでいたのである。もちろん表現力という点ではディスプレイに及ぶべくもないが、このころはLEDだけでも十分新鮮で楽しい時代だったのである。ちなみにディスプレイへの出力回路などは自分で制作するので、オシロスコープなどに写して楽しんでいた人も多いようである。
インベーダーゲームが流行する前にも、日本にはアーケードテレビゲームがあった。いわゆる「壁打ちテニス」と呼ばれる「ポン」(写真)タイプのゲームだ。マイコンを使っている人間にとっては、やはりマイコンでこのようなテニスゲームをしたいと思うのは当然のことである。何せ、マイコンならばCPUやメモリを搭載しているので、アセンブラ技術さえあれば自分でプログラムを書いて好きなゲームを作ることができたからである。このころテレビゲーム自体が珍しかった(まだインベーダー以前)ことを考えると、これは一歩も二歩も他人より先んじた贅沢な楽しみである。
このころの雑誌I/Oにはマイコンを使ったテニスゲーム(写真)などが紹介されている。CPUは8080か6800、RAMを1Kバイト、オシロ、入出力回路、D/Aコンバータなどシステムを自分で構築し、アセンブラ(総計100行くらい)のリストを入力すれば壁打ちテニスを満喫することができた。壁打ちテニスゲームの他にも、数字当てゲームや、迷路ゲームといった単純なゲームがこのころのメインである。
※このころのマイコンはキャラクター(文字)を出力するには、文字パターン用のROMを購入したり、文字パターンを自分でROMに書き込んだりしなくてはならなかった(他の方法もたくさんある)。ディスプレイに表示させるのも、文字を出すのもなかなかたいへんであった。
1978年ごろのマイコン
1978年になると、「BASIC」というプログラミング言語が雑誌「I/O」などに紹介されはじめた(写真)。BASICは、コンピュータを使いやすくするために、それまで「1」と「0」の符号の羅列だったプログラムから、人間が相互のコミュニケーションに使っているような言葉でプログラムを書いて、それを機械に自動的に翻訳させるという目的でできた言語であった。BASICは、実行速度が遅い、メモリを食うなどの欠点があったものの、プログラムのデバッグが大変に楽であること、言語が機械語のようにLSIに依存しない(機種が変わっても大体動く)、初心者に非常にわかりやすいという長所をもっていたため、アメリカでは日本に紹介される前から広まっていた。もともとBASICとマイコンを結び付けたのは、S-100 BUS(ここにBASICのROMを差した)のパイオニアであるMITS(はじめてキットを作ったといわれている会社)であるが、その後も20社近くが独自のBASICインタープリタを発表していることからも、その人気が分かる。
日本では、1978年ごろから、アメリカの雑誌「INTERFACE」誌に付いていた4K BASICと呼ばれるものが1,000円くらいで入手できるようになった(もちろん他にもSOUTHWESTやALTAIRからもたくさんのBASICが公開され、入手できた)。このころのBASICは、そのサイズによって「何K BASIC」などという名前がつけられており、0.768KのマイクロBASICや、2Kから3KのサイズのTINY BASICなどがあった。
BASICの普及につれて、ディスプレイに画面を表示し、カセットテープでプログラムを読み込むという形態も標準になってきた。いままでキットから自作していたマイコンが、購入時からすでに組み立てられた状態で売られるようになり、日立の「ベーシックマスター」、NECの「TK80-BS」(写真)、シャープの「MZ-80K」(セミキット)などが発売された。チップを探すために秋葉原をうろついたり、RAMボードを自分でしこしこ作る必要もなくなった。
BASICプログラマーの増加
BASICが登場すると、いままでI/Oなどの雑誌からプログラムを打ち込み、マイコンで走らせていただけの人たちも、「これなら俺にもプログラムが組める」とばかりに、プログラムを組みはじめる人が増加した。このころのBASICで作られたゲームは、原始的なものであり、「数あてゲーム」から「ライフゲーム」(ライフゲームは生存シミュレーションの一種で正確にはゲームではない)、テニスゲームなど100行程度のシンプルなゲームが投稿として雑誌に掲載されはじめた。また、アメリカでヒットしていた「スタートレック(写真)」(文字情報で表現したクリンゴンを倒すシミュレーションゲームで、マイコンゲームの初期で最も有名なもの)というゲームが流行した。雑誌などでは、「スタートレックを遊ぶためには」などという記事まででており、このころ「スタートレック」が非常に人気が高かったことが分かる。「スタートレック」について詳しくは「シミュレーションゲーム総括」を参照のこと。
日本のパソコンゲームの祖先~AppleII
ここで、余談ではあるが、日本のパソコンゲームに非常に影響を与えたAppleIIについて触れたい。Apple Computerは、1977年にスティーブン・P・ジョブズとスティーブン・G・ウォズニアクという2人の青年によってカリフォルニアに設立された会社である。設立当時、ジョブズは21才、ウォズニアクは25才であった。1975年、彼らがガレージで製作したワンボードコンピュータは、コンピュータ・ホビィストの間に圧倒的な支持を受けた。自信を得た彼らは、自分たちの手で会社を作り、第2作の製作にとりかかった。それがのちに世界の名機としてその名声を欲しいままにする「AppleII」であった。AppleIIは、15色のカラーグラフィック、10K BASICの標準装備、カセットインターフェイスの標準装備やゲーム用のI/O、スピーカの装備といった当時のマイコンとしてはすばらしい機能を備えていた。ところで、「パソコン」という言葉はこのAppleIIの登場とともに誕生したと言われている。そもそも「Apple」という社名は、リンゴという身近な存在で、その響きに暖かみがあって誰からも好かれるということに由来している。そして冷たい感じのするコンピュータを、個人に使ってもらう柔らかい仕様にするというコンセプト、設計思想で「パーソナルコンピュータ」と明言したそうだ。AppleIIは1977年に登場以来、表示速度の速さ、画面の美しさ(この当時では)、そして6年間まったくモデルチェンジをしなかったという人気から、ソフトメーカーが競ってAppleII用のソフトを開発し、その結果AppleIIのソフトは、なんと15,000種類以上という信じられないほどの数になってしまったのである。AppleIIは世界中で120万台以上も売られ、1機種としては間違いなく現在でも世界一である。日本では、価格が高かった(35万程度)のと、漢字処理機能がなかったというハンディのせいか、あまり売れなかった(といっても約一万台は出荷され、ニセのAppleも含めればかなり出回った)。このような歴史を持つAppleIIは、日本にパソコンゲームブームがくる前から、多くのゲームが開発され、日本のパソコンゲームは、Appleのゲームに追いつき、追い越すことが目下の目標だったのである。
PC-8001の時代
1979年に「PC-8001(以下8001と略す)」(写真)がNECから発売された。市場では日立やシャープに先を越される形となったNECだが、8001は、フロッピーディスクやプリンタ、ハードディスクのインターフェイスが標準で付属しており、これは現在(2000年)のパーソナルコンピュータの形態とほぼ同じものである。さらに8001は、80×25行の広い画面表示や8色のグラフィックカラー表示機能(線や円が描ける)を搭載していた。当時カラーグラフィック画面を搭載していたマイコンはパナファコムの「L-KIT16」くらいであった。ほとんどのマイコンではテキストキャラクター(「A」「*」「@」など)しか表示できない時代であり、8001はこの点で他のマシンと一線を凌駕していた。
1978~79年、インベーダーブームが日本に到来し、テレビゲームが一般の人々にまで知られるようになった。テレビゲームに惹かれた人たちは、家庭でもゲームをプレーしたいと思っていたが、家庭用コンシューマー機としては、任天堂の「テレビゲーム15」(写真)のような「壁打ちテニス」か、「ブロック崩し」程度のものしか発売されていなかった。
このようなホビィスト達の目にとまったのが、8001である。1979年後半以降、雑誌「I/O」(特にホビィスト向けの雑誌だった)を中心に、ゲームセンターの類似ゲーム(「インベーダー」や「ギャラクシアン」、「パックマン」など)が掲載され、これがホビィストたちに受け入れられたのである。どのゲームもアーケードゲームの代替品としては、けっして満足できるものとは言い難かったが、テレビゲームをプレーすること自体がとても新鮮であり、「グラフィックがゲームセンターよりも汚い」とか「音がピーしかでない」ということよりも、自分の家でマイコンという不思議な箱を使ってゲームがプレーできるという魅力の方が大きかったのである。8001の売れ行きに伴い、各マイコン雑誌(「I/O」「月刊マイコン」「月刊アスキー」など)に掲載されるゲームの量もどんどん増え、ホビィストたちはそのゲームのリストを一行も間違えずに打ち込んではゲームをプレーするという日々が続いた。マイコンは、プログラムを入力すれば毎月新しいゲームができるという魅力があり、それをテープに保存しておけば何度でも繰り返し遊べた。さらにBASICを勉強すれば自分でも簡単なゲームが作れるという魅力もあった。彼らがどんどんマイコンに惹かれていった背景には、このような理由もあるのだろう。(写真はI/Oに掲載された「Dangerous Drive」)
※8001のグラフィック機能は、マイコンゲームがアーケードゲームに近づけるのではないかと予感させるものがあったが、元々8001はゲーム専用に作られたマイコンではないため、表現的には同時代のアーケードゲームに比べて貧弱であった。8001のグラフィックは「160×100ドット」。あのファミコンが「256×200ドット」であるから、その粗さが理解できるだろう。さらに色はテキストキャラクターほどのドットごとにしか付けられなかった(1ドットごとに付けられない)。
自分でゲームを作る
8001の時代はBASIC全盛時代で、まだプログラムの敷居がそれほど高くなかったため、自分でゲームを作る人間が多かった。
この時代、次の2つの人種が存在した。
・自分でゲームを作って雑誌に投稿したり、ショップに売る人
・雑誌に掲載されているゲームをひたすら入力するか、ショップで売られているゲ
ームを購入する人
自分でゲームを作る人
この時代はBASICが主流だったので、いくつかの命令さえ覚えれば比較的簡単にゲームを作ることができた。現在のゲームはシナリオ、音楽、グラフィックなど多くの人が分担して1つの壮大なゲームを作り上げるので、1人でゲームを作るということはないだろう。しかし、このころのゲームは、全部1人で作るのが当たり前。といっても、専門的なグラフィックのセンスや音楽のセンスなどというものは不必要だった。不必要というより、それ自体をまともに表現できるハードではなかったといった方が正しいだろう。
自作のゲームを作った人は、自信作を雑誌に投稿したり、近くのショップに持っていってそこに集まる人たちに遊んでもらったり、販売用として買い取ってもらって、かなり大目な小遣いを稼いでいた。ただ、すべての作品が売れたという訳ではない。BASICはゲームのスピードがとても遅く、アーケードゲームに近いスピード感溢れるゲームを作るとなると、どうしてもマシン語を使わなければならなかった。このころ、マシン語に関する書籍は少なかったし、NECも内部情報すべてを公開していたわけではない。この制約の中で、すばらしいゲームを作り、雑誌に常連として掲載される人たちは、後に行われたゲームコンテストでその頭角を次々と現し、パソコンゲームの基礎を築く重要なキーパーソンとなっていくのである。たとえば、雑誌「I/O」によく投稿していた芸夢狂人氏、中村光一氏などである。
余談:Appleの話
アメリカのAppleIIが爆発的にヒットした理由に、AppleIIが情報をほとんど公開し、多くの素人プログラマーがAppleII用のゲームを制作したことが挙げられる。ATARI社などの他のメーカーは、ソフトウェアの著作権使用料を考慮し、内部技術を秘密にする措置が取られていたため、ここがアマチュアのプログラマーの足かせになったのである。Appleはソフトウェアがコンピュータを販売する上で最も重要なことだと気がついていたのである。
まだプログラムの流通が少ない時代、AppleIIを売るお店は顧客に対して提供するソフトがほとんどなかった。たまたま購入したお客さんが家でプログラムを作り、それをお店に持ち込むと、それを動かすだけでお店の宣伝になり、さらにそれを欲しがる人にコピーして配布するという形式がしばしば採られた。「ミステリーハウス」を制作した有名なケン&ロバータ・ウィリアムズ夫妻も、同じような経緯でゲームを作り、それをお店に買いとってもらうだけでなく、自らソフト会社まで作ってしまったのである。
ゲームを打ちこむ人
ゲームが作れない人間は、ひたすら毎月雑誌に掲載されるゲームプログラムを打ち込んだり、パソコンショップに陳列してあるなんとなくおもしろそうなゲームを、少ない小遣いで購入するしかなかった。雑誌は定価が500円程度と安く、8001のゲームは当時主流であったため、一冊に数本のプログラムが掲載されたりしていて、なかなかお買い得であった(写真:当時の雑誌I/Oの表紙)。しかし、プログラムゲームリストを打ち込むのは、なかなかしんどい作業である。何百行とあるBASICのリスト。これを打ち込むだけで目が霞む。でも、あと数時間後に写真と同じゲームができると思うと、手がひとりでに動くのである。そしてやっと完了。さっそく「run」(起動の命令)。「Syntax error」~要するに打ち間違いによる、文法解析不能エラーである。「Syntax error」はBASICの命令間違いだから、容易に修正が可能だ。しかし、時として思いもよらぬエラーが。「Type Mismatch Error!」どこが間違えているのかわからない。しかたなく、最初の行から一つ一つ確認していく・・・・。なんて気の遠くなるよなうな作業を延々としていた。そしてこれらの苦難を乗り越えてやっと望みのゲームがプレーできるというものであった。苦労したあとの喜びほど大きいものはなかった。
恐ろしいマシン語
BASICは、人間にはわかりやすい言語なのだが、コンピュータはこのままでは処理することができないため、一度読める形に翻訳してから実行していた。そのため、マイコンの真の実力を発揮させるためには、BASICではなく、マシン語(アセンブラ)で直接コンピュータに読める言葉で作成するのが一番であった。しかし、マシン語の敷居は相当高く、言語の難解さもさることながら、プログラムの開発環境を整えるだけでも普通の人にはできなかった。さらに雑誌にマシン語のプログラムが掲載されるのだが、「00 5F 72 FF E0」のような16進数の文字が並んでいるだけ。それでもゲームをプレーしたい人たちは、ルーペ(本当に「リストルーペ」なるものが存在した)を片手にこの意味不明な文字列をひたすら入力していった。なんとか意味不明な文字をすべて入力し、実行する。ここに大きな落とし穴が・・。マシン語は間違って入力した場合、BASICのように親切なエラーメッセージは表示されない。暴走するのである。つまり電源を切らないと復旧しないということ。いままでの苦労が一瞬のうちにパーである。だから、マシン語の取り扱いには、慎重さが要求された。プログラムを打ち込んだら、すぐに保存。チェックサム(各行の合計値があっているか)を確認。ここまですればたいていの場合、安心してゲームができた。しかし、入力が間違っているのに、偶然にもチェックサム(合計値)が合っていた場合は、もはやエラーを確認する術はなかった。(写真はマシン語のプログラム)
打ち込めない人
こんな人もいた。プログラムを打ち込むのがあまりに面倒なため、市販のゲームをマイコンショップで買ってくる人。雑誌に掲載されたゲームを入力できない人のために雑誌社がでそのゲームを販売する「カセットサービス」を購入してしまう人たちだ。別にこの人たちは何も罪なことをしているわけでもないのだが、この種の人間は「マイコンをもってるくせして、プログラムも打ち込めないなんて…」とマニアの間では非難されたものだ。
市販のカセットゲーム
当時はマイコンのゲームばかりを作るソフトハウスというものはまだ希少な存在であった。主なところでは札幌の「ハドソン」、佐賀の「テクノソフト」、北海道の「コンピュータランド北海道(後のデービーソフト)」、福岡の「システムソフト福岡(後のシステムソフト)」などである。また普通のマイコンショップが、個人が作ったゲームを「ショップブランド」として販売していた。主なところでは秋葉原の「ツクモ電機」(写真はツクモ電機の広告)「マイコンショップRAM」などである。初期のソフトハウスが制作したゲームは、雑誌やショップブランドのゲームと質的にほとんど変わらなく、逆にそれ以下のものもたくさんあった。というのも、ソフトハウスの人間も雑誌に投稿する人間も技術レベルとしては、ほとんど変わらなかったのである。さらに当時のカセットケース(現在のカセットテープのケースと同じ)に入った市販ゲームには、ゲームの画面写真や説明がカセットケース上に全く示されていないものがほとんどで、このゲームが本当におもしろいかなどは全く知る由もなかった。「内容はやってみてのお楽しみ」などというものが氾濫していたのだ。
上記のように人それぞれ、マイコンのいろんな魅力に惹かれ、瞬く間に過ぎ去ったこの時代。これから先、88の時代に突入すると、ソフトハウスが次々に台頭し、作られるゲームの数、質、ジャンルもこの頃と比べ物にならないくらい高められていった。マイコン本来の、「創る楽しみ」に惹かれる人よりも、「創られたものを遊ぶ」という魅力に惹かれる人々が大多数を占めるようになっていったのである。
参考文献
電脳遊戯大全 ●005
スペースウォーの写真 電脳遊戯大全 ●005より引用
ポンの写真 電脳遊戯大全 ●006 127より引用
スタートレックの写真 電脳遊戯大全 ●010より引用
スペースインベーダーの写真 電脳遊戯大全 ●164より引用
工学社 I/O 77年1月号より記事を引用
工学社 I/O 77年12月号より記事を引用
工学社 I/O 83年1月号より記事を引用
TK-85、PC-8001 ささじぃ氏より提供
TK-80、TK-80BS、APPLEIIc、TV-GAME15 虎菊氏より提供