Seed-種をまいた人-
インタビュー

このページは、愛妻さんのご好意により、ホームページ「ノスタルジア」に掲載されている高橋ピョン太さんのインタビューを、本CD-ROMに収録させていただきました。この場を借りまして、愛妻さん、そして掲載許可をいただきました高橋ピョン太さんに御礼申し上げます。

今回インタビューをお願いしたのは、元ゲームプログラマーであり、元ログイン編集長の高橋ピョン太さんです。2時間ものインタビューにつき合って頂きまして、有り難うございました。色々な面白い話が聞けたのですが、全部を載せるわけには行かないのが残念(笑)

高橋さんのコンピュータに触れたきっかけから、ログインで働くまでの経緯を紹介したいと思います。

ただ、インタビューと言うよりも、雑談かもしれません(逝) 
でもこの話の中には、今のゲームやパソコンが失ってしまった、大切な何かがあると思っています。

注:敬称略です(^_^;

(1998年9月収録)



愛妻 お久しぶりです。

高橋ピョン太(以下、ピョン太) どうも。相変わらずだね(笑)

愛妻 今日はですね、昔ゲームを作ったときのきっかけとかを聞きたいんです。いまゲームをやっている人たちが「昔はこういう感じだったんだ~」というのをホームページに載せたいんですよ。それで今日、インタビューをお願いしたんです。

ピョン太 じゃあ、僕がなんでゲームを作ったとか、そういう事を言えば良いんだね。

愛妻 まあ昔話でも良いんですけど(笑) こんなゲームが面白かったとかそんな感じで良いんです。えーと、ピョン太さんのことはログインの紙面とかにバンバン出ていたので、知っている人は多いと思うんですが、元プログラマーだと言うことを知っている人は、あんまりいないと思うんですよ。ログインの隔週の最後に、その事が載りましたよね?

ピョン太 『デジしょく』だね(笑)

愛妻 そうです(笑) それで知ったと言う人も周りには結構居たので、じゃあ「こういうのを作ってたんだよ」みたいなのを載せたら面白いかな~と。

ピョン太 最近よく、「元プログラマーだったんですよね」とかね、言われますよ(笑)

愛妻 ははは(笑)

ピョン太 基本的に昔のパソコンっていうのは、あっ、まだマイコンって言っていた時代なんだけど。

愛妻 ええ(笑)

ピョン太 マイコンって言うのに興味があって買った人は、なんだかのプログラムをしないとさ、何も出来なかったんだよね。

愛妻 そうですよね。

ピョン太 そこでしょやっぱ(笑)

愛妻 そこですか(笑)

ピョン太 そこですよね、多分。一番最初はなんかTK-80とか、要するにワンボードの状態で、それはもう完全にアセンブラって言うかマシン語じゃなきゃダメで。それっていうのは、ワンステップ・ワンステップでやっていくものだから、高度なプログラミングが出来ないんだよね。その後に出てきた、まだパソコンのチョイ手前の物(つまりマイコンと呼ばれていた時期の物)は、みんなベーシックが入っていたでしょ? で、システムとしてベーシックが入ると。まだOSなんて意識がないから、いきなり電源入れたりとか。オレ持っていたのMZなんで、ベーシックのプログラムをロードしたりとかしないと動かないんだけど。

愛妻 シャープ系のマシンはそうでしたよね。

ピョン太 そうそう。クリーンコンピュータね(笑)

愛妻 ええ、それです(笑)

ピョン太 だからまず、ベーシックを立ち上るとシステムが起動して、それで何をやるかというと、ベーシックが立ち上がっている状態だから、何らかのプログラムをロードするか、もしくはプログラムを入力しないと動かない。

愛妻 ですね。

ピョン太 で、その入力するという自体が、コンピュータの、マイコンのもっともベーシックな使い方なんだよね。そうすると自分で組むか、雑誌の後ろに付いていた・・・。

愛妻 リストプログラムですね。

ピョン太 そう。そのリストプログラムを打ち込むと。少なくとも、例え自分で作らなくても、プログラミング作業みたいな事はやらざるおえなかった。

愛妻 そうですよね(笑)

ピョン太 最初オレが始めたときは、市販ソフトという概念もなかったし。『I/O』っていう雑誌か『ASCII』。後は『マイコン』、『RAM』っていう・・・。

愛妻 ああ、ありましたね(笑)

ピョン太 その4大マイコン雑誌(笑) それで入力するしかなかった。

愛妻 『I/O』があまりの厚さで、人が殺せるっていうときですね(笑)

ピョン太 そうそう(笑) それで1番『I/O』が面白いプログラムが沢山あって。投稿がメインだったんだけど沢山載るようになって。それが楽しみで、毎月毎月プログラムが出たら自分のマシンに入力していたんだけど、そのうち入力するのが苦になって来るんだよね。マシン語なんて数字の羅列だから、面倒くさくてしょうがなくて(笑) 間違ったら動かないし、何処が間違えているのかが判らないっていうのがあって。

愛妻 結構泣けますからね。間違いが見つからないと。

ピョン太 すると『I/O』がテープサービスというのを始めたのね。プロラグラムをカセットテープにセーブしてあってそれで模範する。そういう流れだから。基本的には、必ずプログラムするよね。

愛妻 それが高じて、ゲームを作り始めたのですか?

ピョン太 オレがコンピュータでプログラムっていうか、ゲームをやろうと思ったのは、そもそもゲームが好きだったから。

愛妻 いつから、っていうか、最初にプレイしたゲームっていうのは、何なんですか?

ピョン太 それは歳がばれるから(笑)

愛妻 でも僕だって『インベーダー』とか、そういう時代ですから(笑)

ピョン太 ああ、そうなんだ。『インベーダー』をやって、『インベーダー』自体がマイコンで出来ているっていうのを知ったときに、本当に面白そうだなと思ったのね。で、最初はTK-80っていうのを見てて、買った訳じゃないんだけど見てて。高校が秋葉原に近かったから良く観に行っていて、欲しいなと思っていたんだけど手持ちが無くてナイコン(爆笑)
愛妻 はははナイコン(爆笑) やっぱりこれですね(笑)

ピョン太 ナイコンをしばらく続けていたときに、TK-80にベーシックが乗るようなシステムなったやつがあって、それでちょっとベーシックを見て、「ああ、面白そうじゃん」と思って。で、高校を卒業したときに親の仕事を手伝うって言って、それで先にMZ-80Cっていうシャープのマシンを買って貰った。それで返済するっていう形で月賦で買ったんだけど、いつの間にか親が払っていた(笑)

愛妻 ははは(笑)

ピョン太 それでマシンが来たときに、その中に入っているベーシックの説明している本を見て遊んでいる内にプログラムを覚えたという感じ。で、プログラムを覚えているときに、アメリカで「アップルIIでスタープログラマーが誕生!」みたいな本を読んだのね。それをオレが見たのはね、『ポパイ』っていう雑誌があるでしょ。その『ポパイ』のニュースのところで、アメリカの億万長者じゃないけど、それに近い人というのが居て、新しい世代の新しいお金持ちみたいな感じで載ってたんですよ。それでオレもなんでか知らないけど、「これだ!」って(笑)

愛妻 凄いっすね(爆笑)

ピョン太 就職もせず日々コンピュータと接していたとき、「もしかしたら出来るかも」って言っていたくらいの頃が、『I/O』のテープサービスが始った頃だったのね。で、ポツポツと『I/O』の投稿プログラムの方にソフトを作るソフトハウスもどきなのが出てきて、ハドソンとかスタークラフトとかが『I/O』創刊の頃にそういう作業をしていて。唯一そういうところが、ちゃんとソフトハウスとして活動してたのね。えーと、九十九電気もそうだね。

愛妻 あ、そうですね。

ピョン太 お店でソフトを売ってて。

愛妻 昔のパソコンソフトって、お店を展開していて、そこにプログラムが好きな人とが集まってきて、いつの間にか会社になったというのが多いですよね。

ピョン太 そうそう。そんな感じのが多かった。

愛妻 日本ファルコムとかもそうですしね。

ピョン太 ショップを中心としたコミュニケーションの場があって、そこに集まったソフトウェアがなんだかの形で市販されるって言うかね、そんな感じですね。九十九もそうで、九十九でパソコンを買うとソフトが何本か付いてきて。まあこれも素人が作ったのだから、今で考えるとほんと”おまけ”的なソフトなんだけど、それでも全部が新しかったから、ムチャクチャ面白かったね。

愛妻 今までにない体験ですからね。

ピョン太 それで、最初に作ったのが『スタートレック』。

愛妻 はいはい(笑)