信長の野望


光栄より1983年5月に発売


初期のシミュレーション

「信長の野望」は、パソコンゲーム黎明期において、シミュレーションウォーゲームを一般大衆化するのに成功した、金字塔的なゲームである(シミュレーションというには当時は異色ではあったが)。シミュレーションウォーゲームの歴史はかなり古く、元をたどればコマとマップを使うボードシミュレーションゲーム(コンピュータゲームではない)がその元祖である。このボードシミュレーションゲームは、2人や4人などの複数のプレーヤーが自軍と敵軍に分かれてプレーする。ボード上には地形がヘックスの形で印刷され、コマには部隊名や空母名、能力が数値として表示されている。このようなたくさんの種類のコマをマップ上で動かし、勝敗を決していく。このようなタイプのゲームは1950年代からアメリカで人気が出ていたが、ルールがかなり複雑で、コマの被害段階を管理したり、戦力表をもとに気象状態や軍隊の指揮を自分で計算してプレーしなくてはならないので、初心者にはなかなか手が出にくいものであった。

コンピュータ上でのシミュレーションというと、日本でも1979年あたりから「スタートレック」が流行し、この手のゲームの元祖といってよいだろう。そのあと、ボードゲームのシミュレーションをコンピュータゲーム化したものが日本でも木屋通商から多く発売されていたが、ボードゲームと同様、やはりマニアックであった。ボードシミュレーションのようなシミュレーションウォーゲームの大切な部分は、いかに史実に忠実に再現するか、という点にあるため、参照する数値データが増えて、初心者にとってルールが複雑になる傾向が強かったのである。


親近感のあるゲーム

第2次世界大戦中のヨーロッパの局地戦をシミュレートしたゲームを、プレーしたいと思う日本人はどれくらいいるだろうか? 初期のパソコンシミュレーションゲームは、米国アバロンヒル社のボードゲームから移植されたものが多く、日本人に馴染みのない西洋の戦いをシミュレートしたゲームが多かった。軍事マニアの人は楽しめただろうが、「シミュレーションゲームって何?」というユーザーには、なかなか入り込む余地がなかった。このようなユーザーは初心者のユーザーというより、新たなジャンルのゲームをプレーして楽しみたいという潜在的なシミュレーションユーザーたちだったのだろう。
そんな状況の中、1983年春に「信長の野望」が光栄から登場し、じわじわと売れはじめた。そして口コミか雑誌の影響かわからないが、月刊ソフト売り上げベスト10の上位に常に顔を出す常連となったのだ(最終的には初期のシミュレーションでは最も売れたゲームになった)。それまでマニアックといえたシミュレーションウォーゲームの世界にあって、多くの潜在ユーザーたちがこのゲームをプレーし、大ヒットとなった理由はなんだったのだろうか?
「信長の野望」がそれまでのシミュレーションウォーゲームと明らかに違っていたことは、政治的な要素が、戦闘の要素よりも勝っていたことが挙げられる。そして日本の戦国時代を舞台にしたということも挙げられる。
それまでのボードシミュレーションを核としたシミュレーションは、敵に勝つためにどうやって部隊を動かすかという戦術を中心にしていた(これは信長の野望の戦闘シーンにあたる)。たとえば、同じ戦国時代でも「奇襲!桶狭間(CSK)」「川中島の合戦(光栄)」などは戦国時代のある1つの戦いに焦点を当て、これを忠実に再現することに全力をあてていた。
一方、信長の野望では「国を作る」というマネージメントのような部分にスポットを当てている。国を作るという作業とは、例えば百姓から米を取りたてて、その米をお金に変えて街を作る、そして灌漑や耕作で国力を増強する。民の忠誠を上げるために米やお金を与えて農民に忠誠心を植え付ける。実に地道な作業だ。
我々は学校で日本史を学んだ。織田信長などの武将のことはよく知っているが、苦しい生活をしていた農民のこともよく知っている。このゲームをプレーしていると、一揆にならないように民に富を施したり、兵の忠誠を上げたりすることが、自分の頭の中にある日本史の知識とうまく結びついて、なんとなく納得できてしまう。

そう、このゲームはとても親近感がある。戦国時代は足利幕府からその土地の大名が力を貯えて勢力を広げていったという、日本の歴史の中でも最も活気あふれる時代である。また、その中で数多くの名将が登場した。特に「織田信長」は戦国時代の主役であり誰もが知っている。織田信長にプレーヤー自身がなり、国力を貯えて戦争をして領土を広げる。実に明確だ。このとっつきやすさも、このゲームの特徴だろう(もしこれが「蘇我入鹿」や「後醍醐天皇」だったら売れなかっただろうな・・・)。


ゲームの特徴

ゲームを開始すると、まず信長の体力・知力・健康・カリスマ・運を設定する。この値は後々に影響を及ぼすので、何回もやり直して、全部90以上になるように設定する。余談だが、ここの部分がプレーヤーにとって面倒な部分だったので、後に発売された光栄のゲームでは、ある規定値からプラスマイナス10程度の誤差しか生じなくなっている。

続いてマップ画面に移行し、各国が戦略に入る。自分が実行できるコマンドは実質14個である。開墾、治水、街の開発などで国力を整える一方、民と兵士に金米を与えて忠誠心を上げる。国力が整ったら兵力を増強し、敵国に戦争をしかけるという寸法だ。他国の戦略中には他国同士の戦争も頻繁に行われ、次々に領土の名前で塗り変わっていく様を見ていると、まさに戦国時代そのものを感じることができる。このアイデアはすばらしい。また、相手国の強さもランダム性があり、毎回どこが生きのこっていくのかわからない。だいたい「上杉」「武田」「本願寺」あたりが毎回強いのだが、それでもいつのまにかこれらの大名が時期早々に消えてしまうこともしばしばある。
各国のデータなどは史実に忠実に再現されている。このあたりはデザイナーの「シブサワ・コウ氏」がとことんにこだわったようで、歴史の教科書などから各国の国力、大名の名前、年齢、実際の米の生産量などを見事にパラメータ化した部分を評価したい。

ある程度国力が整い、兵力も整ったら、戦争だ。他国に戦争をしかけると(他国から仕掛けられた場合も同じ)、画面がヘックス形式の戦闘シーンになる。兵力は5つの部隊に均等に5等分され、おのおのが独立した部隊として戦術をとっていく。このときに、山や街といった地形を利用すると有利であるとか、信長がいると士気が高まって強くなるとか、いろいろと要素が交じり合う。
このヘックス画面の地形も、その国のデータをあらかじめ資料から調べられており、山が多い国は、きちんと山が多いし、湾がある国は、きちんと湾の形をしている。このあたりの細かさもよく出来ている。

戦闘で勝利すると、その国は自分のものとなり、次のターンからその国を自分で操作できるようになる。どんどん増えていくとじれったくなってくるのだが・・。こうして17の国すべてを統一するとゲームが終了となる。


信長の野望を制作するまでの光栄

「信長の野望」を制作する前の、光栄の生い立ちをみてみよう。1978年7月に染料、工業薬品の卸売の問屋として栃木県の足利市で設立された。設立の1年前(社長の襟川氏が大学を卒業したころ)、社長の襟川氏の父親が経営していた染物問屋が倒産し整理状態。3代目の彼は、父親の会社にいた従業員一人と再出発をした。当時の繊維業界は、東南アジアの進出など国際化の波にもまれて、衰退する傾向にあった。光栄も設立したのはいいが、その日を暮らしていく程度の儲けで、それ以上はとても望めるような状態ではなかった。1980年に入ると、マイコンが徐々に普及し、襟川氏もこれに興味を示したが、20万円以上もするマイコンを購入するのは、難しかった。そしてその年の10月26日、誕生日プレゼントとして奥さんの恵子さん(西暦2000年現在の社長)からMZ-80Cをプレゼントされた。奥さんの恵子夫人は、美術大学の出身で、デザイン関係の仕事をしており、この時期、夫の襟川氏よりも稼いでいたという。奥さんの権限は昔から強く、MZを誕生日に購入してもらったことからも分かる。襟川社長は慶応大学の出身で、大学時代に日吉に実家を持つ恵子夫人の家に下宿していたという。2人の出会いはこんなところにあったのだ。襟川氏は、MZを夜中の1時や2時、遅いときは明け方までいじり、独学でコンピュータを勉強していった。自分の会社の財務管理や在庫管理をプログラムする傍ら、いろいろと情報交換するマニアの輪も広がっていった。そんなマニアの中にある上場会社の課長がおり、「ウチの水質検査のプログラムを作ってみないか?」と誘われ、これが光栄のコンピュータ関連の最初の仕事だったという。こうしてシステム販売の仕事が増え、顧客からもBASICを教えて欲しいというニーズが多くなってきたため、襟川氏はパソコン教室を開き、さらにパソコンショップを奥さんの実家のある日吉にもオープンした。襟川氏がパソコンを手にして半年も満たない間だった。
襟川氏は、システム販売やパソコンショップの仕事をするかたわら、もくもくとゲームを作った。そして1982年に「川中島の合戦」「投資ゲーム」を完成し、通信販売で販売を開始した。1982年中には、光栄は最初の染料、工業薬品の仕事を、収益があがらないためすべてやめてしまった。こうして光栄の本格的なソフト創業が開始されたのである。
信長の野望をデザインした「シブサワコウ」氏は襟川社長本人である。初期の光栄のゲームの多くは、襟川社長本人がデザインしたものが多い。「シブサワコウ」という名前は、後の光栄のゲームではシリーズを代表する架空プロデューサーのような使われ方をしていたが、これは日本サンライズの「矢立肇」のようによく見られるものだ。後の光栄のゲームのマニュアルにあるシブサワコウの字訓はマニュアル担当者が勝手に書いているものだった。シブサワコウ氏が、襟川社長本人だという正式な公表は、1999年までされなかったが、新作の発表会などのときにシブサワコウが記者会見していた。襟川社長は180cm以上身長があり、かなりの大男なので、社長を知っている人ならば、みれば一発でわかってしまったと思う。
ちなみに「フクザワエイジ」は完全にフィクション。一説には恵美子夫人かという噂もあるが、活動は特にない。


ということで

信長の野望のおもしろさは、「国内政治の場合は経営シミュレーション」、「戦闘は戦略シミュレーション」になるという2面のおもしろさ、そしてシミュレーションという難しい分野でありながら、戦国時代と織田信長というキャラクターを取り入れることによって、幅広いユーザー層にアピールすることができたという点、そして細かい歴史考証による設定のうまさがピッタリと組み合わさったから実現したものだろう。私はこのゲームで徹夜を繰り返した。シミュレーションゲームを面白さをはじめて教えてくれたゲームであった。そして、これはこの当時のかなり多くの人がそうだったに違いないと思う。

「信長の野望」に関連するすべての画面写真、パッケージ写真の著作権は株式会社コーエーに帰属します。