倉庫番


シンキングラビットより1983年8月に発売


コンピュータパズルの軌跡

パズルゲーム・・おおよそ有史以来人類とともにあり、今でも流行っているこの種のゲームは、「浮世を忘れてノメリ込める」ところに面白さがあるようだ。パズルゲームは、アクションゲームとは違い、ひたすら能動的である。リアルタイムゲームの場合、コンピュータが攻撃してくるから、仕方なしに受け身でのめり込まざるを得ない側面があるが、パズルに関しては逆である。ルールさえ頭に入れば、いつでも一人で時間を忘れて楽しめるし、ゴールこそあれ、勝ち負けは存在しない。こんなところにパズルの楽しさがあるのだろう。
コンピュータでは、パソコンの創世期から論理型ゲームのシミュレートは存在している。たとえば、オセロゲームやトランプゲームなどはその代表格である。これらのゲームは、リアルタイムゲームとともに、1982年以前のパソコンゲームの主力ともいうべき存在であった。最も多いのは、麻雀ゲーム、雀球ゲーム、トランプゲームであろう。また数は少なかったが、「15パズル」と呼ばれる15個の板を並べ替えるパズルゲームの原形がこの時期いくつか発売、または雑誌に掲載されていた。ただ、アイデア的には、実物をパソコンでシミュレートしたものに過ぎず、コンピュータでやる価値を問うというよりも、ただコンピュータを使ってこんなこともできる的な位置づけにすぎないものであった。ところが、1983年にTHINKING RABBIT社から発売された「倉庫番」によって、コンピュータでしかできないパズルゲームが徐々に姿をあらわしていくことになる。


新しいパズルゲームの登場

コンピュータで、比較的作りやすい(プログラムしやすい)ゲームは、「論理型」ゲームのシュミレートである「麻雀」「トランプ」「オセロ」などを主流としたテーブルゲームであった。1980年代前半、これらのゲームは、コンピュータの思考ルーチンを改良し、技術の粋をこらしていった。こうしたテーブルゲームがほとんどコンピュータソフト化されたあと、パズルゲームが徐々に発売されてくるのだが、それは「15パズル」とも俗称されるスライドパズルと組み合わせた絵合わせゲームであった。このタイプのゲームは1983年から1984年にかけて数多く登場した。主なものではアスキーの「Breeze」、タカラの「シネマパズル」、日本ファルコムの「女子大生プライベート」、ポニカの「綿の国星」、徳間の「MISS MACROSS」などが挙げられ、いずれもキャラクターに関する絵を使うか、アダルトな画像を使うものであった。しかし、これらのパズルゲームは、実際には本物のパズルの方がはるかに扱いやすいし、これ以上の発展もなかなか見込めない分野であると思われた。
ところが1983年にTHINKING RABBITから発売された「倉庫番」はそれまでのパズルゲームから脱却して、「コンピュータであればこそできるパズルゲーム」を成功させた初めてのゲームだったと思われる。この倉庫番、ゲームは倉庫に散らばる荷物を「押す」という行為だけで所定の位置に並び替えるという単純なもの。プログラム的にはどうみてもたいしたことはないものであった。どうしてそれがここまでヒットしたのかというと、倉庫番のルールがコンピュータを使わなければ絶対できない新しいパズルの感覚だったのである。試しに、この倉庫番を実際に紙とコマを作って遊んでみると分かるのだが、遊んでいるうちに頭が混乱してくるし、ついうっかり引いてしまったりと、コンピュータによって、きちんとルールを掌握してもらわないと快適にプレーできないのである(ただし、倉庫番発売後、方眼紙にこれを書いて遊んでいる人はけっこういたという事実もある)。


作者の今林氏とは・・

作者の今林宏行氏はどうのような人だったのだろうか。高校時代はどちらかというと左翼的な思想にかぶれていた今林氏は、卒業後、専門学校へと進む。専門学校は写真関係。そこで1年間写真をやり、カメラを持って報道写真を撮ったり、スタジオ撮影をしたりした。そのうち映画を撮りたくなって、映像部が新設されたため、映画部へと転部することになる。
今林氏は洋画、すこし暗いものが好みだったらしい。好きな監督は、フェリーニ、ベルイマン、コッポラ、ポランスキー(筆者にはさっぱりわからない)。新設された映像部は設備も整っていないこともあって、だんだん行かなくなってしまった。そして半年後、学校をやめてしまうことになる。
学校を辞めると働かなければならない。ガソリンスタンド、新幹線の掃除、新聞の折り込み配達、ジュースの工場、雪印ハムの工場・・・いろいろとアルバイトをしていたようだ。

今林氏に転機が訪れた。あるときレコードを買いにいったら、その店の娘と知り合いになり、そのまま結婚。結婚当時は無職で、両親の反対もかなり受けたが、なんとか成立。レコード屋を手伝うこととなった。ある日、友人がシャープのMZ-80Cを店に持ち込み、それをそのまま置いていった。それからがもう大変。夢中になって3日ぐらい徹夜をする始末。そのあと酒もタバコもやめるということで奥さんにPC-8001を購入してもらう。いろいろとゲームを作って、店の人に興味本位で見せていたらしい。
そのうち店にコンピュータを置こうという話が出て、NECのPC-8801やPC-6001を並べた。このころ、8001のキャラクタで「倉庫番」を作って人にやらせた。そこに8801がきたもので、細かいグラフィックスでやったらきれいになった。ちょうど営業の人が店にきて、ソフトも置こうというふうな話をしてて、「こんなソフトがあるんです」と「倉庫番」を見せたところ、「売れる!!」といわれ、発売に踏み切ることになった。
倉庫番は、ロジカルで思考だけが重要であり、じっくり時間をかけて解くゲームというコンセプト。制作当初考えていた「時間制限をつける」とか「蛇を追いかけさせよう」とかいらない部分はとってしまった。リアルタイム要素といったスケベ心は不必要だと考えたのだ。今林氏は、82年の末からなんと自分でパッケージを作り、ダビング屋を探してソフトを供給してしまった。1983年には名前を「シンキングラビット」とし、有限会社を設立。「シンキングラビット」という名前は以前からあった会社の名前で、結婚したときに、奥さんがつけたものらしい。シンキングラビットは、当初4人でスタートした会社であった。当時は自宅の狭いマンション。メンバーはレコード屋にコンピュータを置いたときに遊びにきていた、そういうのが得意な人たちで構成されていたようである。


ということで

倉庫番は、25,000本以上を出荷し、このあと「倉庫番2」「倉庫番パーフェクト」と88だけでもこれだけの続編ゲームが作られた。それほどまでに、ユーザーに愛され、Windowsが世界を支配してもなお、倉庫番と名のつくゲームが登場するほどである。
倉庫番は、新しい問題(面)を考えた人に懸賞金がでるというおまけがあった。ただし、最後の20面をクリアしたときのメッセージを添える必要があった。データはリストまたは方眼紙に倉庫と荷物の絵をかいたものをシンキングラビットに送るというもので、このユーザーのデータが「倉庫番2」の舞台となって帰ってきたのである。多くのユーザーにも支えられたこのゲーム、そのアイデアを考えた今林氏に脱帽したい。

参考文献:テクノポリス84年9月号、PCマガジン84年11月号より抜粋
今林氏の写真 テクノポリス84年9月号P.101より引用

「倉庫番」に関連するすべての画面写真、パッケージ写真の著作権は株式会社シンキングラビットに帰属します。