ハイドライド by 若林氏


T&ESOFTより1984年12月に発売


ARPGというスタイルの成立

元祖アクションロールプレイングゲームとして皆がすぐに挙げるゲームといえば、やはりこのゲームであろう。「ドラゴンスレイヤー(日本ファルコム)」に対して、「敵との戦闘が成長の基本手段である」という点で、ハイドライドの方がよりRPGらしいといえる。それになにより、舞台であるフェアリーランドは、まさしく「ファンタジー」であった。当時はまだ、「ファンタジー」それ自体が新鮮だったのである。



不思議がいっぱい、フェアリーランド

「ウルティマ(オリジン)」では広大なフィールドを「歩き回る」のに対し、ARPGであるこのゲームは、フィールドを文字通り「駆け回る」事ができる。ハイドライドのフィールドというのはさほど広くないのだが、当時はその狭い世界でも十分楽しめたし、今となってはその箱庭感覚が懐かしい。
単純にフィールドを走り回り、そこらにいるモンスターにちょっかいを出す、それだけでも十分に魅力的な環境であった。しかも、この世界には動き回る木や岩といった不思議な現象、地下洞窟からつながる砂漠、といった魅力的な仕掛けに事欠かなかった。そして、それらをつつき出して、妖精と出会うあたりから謎解きが始まる。



理不尽ともいえる謎と解けたときの感動

ハイドライドの最大の楽しみが「謎解き」であることは言うまでもない。
まずは見えている宝箱をとることからであろうか。ゾンビの出てくる墓場の奥にある宝箱。ローパーの出てくる地上ダンジョンの宝箱。入った瞬間真っ暗で、ウィスプに瞬殺される部屋の宝箱。これらを取ろうともがくうちにバンパイアのいるダンジョンも気になってくる。そして某所で手に入れた十字架。糸がほぐれるように1つずつアイテムが集まってくる。この序盤の流れは今でも素晴らしい。

しかし、ここからある種の膠着状況が始まってしまう。謎が難しくなるのだ。「盾」と「宝石」はともかく、「3匹目の妖精さん」に会えないとどうにも話が進まなくなるのだ。これがこのゲーム最大の問題点にして醍醐味である。確かに理不尽な解決ではあるのだが、それ故に解けたときの感動は大きい--デゼニランドの十字架がはまったときのように--。そして、当時私たちのまわりには十分な数のゲームがなかった。故に、執拗にハイドライドの世界を駆け回ることができた。だから、当時はこの謎が許された。「魔法使いに」捕らわれた妖精の救出方法に。せめて「魔法使い」にぴんとくるような工夫があればもっと良かったのだが。



まとめ

ハイドライドの最大の功績は「フィールドを駆け回る楽しみ」を提示したことだと思う。その醍醐味は「ハイドライド2」「ハイドライド3」をはじめとする様々なゲームへ継承されて行った。

また、文中ではほとんど触れなかったが、ARPGの本来の要素である「フィールドシーン上で行われるリアルタイムの戦闘」も大きい。「体当たりによる戦闘」は「イース」によって1つの完成を見ることになるし、「リアルタイムの戦闘」はジャンルを越えて未だに進化し続けている。

<文章:若林氏>



おまけ:ハイドライドと内藤氏

ハイドライドを制作したのは、有名な内藤時浩氏。彼のハイドライド制作の経緯をみてみよう。工業高校出身の内藤氏はそのまま鉄工所に就職。耳がまったく聞えないようなものスゴイ騒音の中、車のエンジンのスターターのシャフトとかタービンのシャフトとかを削っていた。こんなエピソードもある。あるとき内藤氏が風をソ連風邪をひいたときに、診断書をつけて休暇届を出したら、いきなり「認めん。すぐに出て来い」などと言われたそうだ。
内藤氏は趣味はもちろんコンピュータだった。出会いは、中学3年生の頃、当時日立のベーシックマスター・レベル2が家電売り場の店頭にマニュアル付きでおいてあり、プログラムを打つとUFOがフニフニと動いた。これをみておもしろいと思った内藤氏は高校に進学し、大型計算機でFORTRANを習う傍ら、無線クラブではMZ-80KでBASICをいじくり、コンピュータクラブにも在籍した。
高校2年生のとき、FORTRANでは愛知県の情報技術競技大会で個人1位となり、BASICではパソコンショップに2ヶ月間通って、対戦型のバックギャモンを作ってしまう。高校卒業後は中古のPC-8001を購入し、マシン語を勉強し、アスキーのプログラムコンテストに入選した。このときのゲームは「ウルトラマンJr.」というパックマン型のゲームであった(このときの賞金は50万円)。 半分サラリーマンが嫌になっていた内藤氏はたまたま上司とケンカをして会社を辞めてしまった。そしてT&ESOFTにプログラムリストを2,3本持ちこみ、こういうふうに作れるのでボクを雇ってくださいと頼み込んで入社したという(玄関口で「雇ってください」と座り込んだというエピソードがあるが、本当か?)。それが1984年の2月だったという。
入社早々、企画書を作り「こんな感じのゲームを作りたい」とT&E社長の横山氏に見せたところ、その企画が通り、そのときに制作したのが「コスモミューター」というゲームであった。このゲームはヒットはしなかったカルトゲームであるが、詳細はこちら。その後、コスモミューターをPC-8001mk2に移植し、次の仕事が「暗黒星雲」の88版であった。
ハイドライドのプログラムに取りかかったのは、1984年の9月に入ってからであった。アイデアは前からあったらしいが、いろいろな仕事をこなしていたので、なかなか時間もなく、当時はデザイナーもいなかったことから、自分でデザインから入り、パターンエディタを作り、1ヶ月2ヶ月かけながら作っていた。しかし、社長から「年末に出すぞ」ということで、作業は急ピッチに。完成は1984年の11月であった。
ハイドライドの原案はリアルタイムアドベンチャーゲームであった。あまりアドベンチャーゲームが好きではない内藤氏であったが、アドベンチャーゲームの良さは分かっていた。そこでリアルタイムで遊ぶ謎解きゲームを考えていたのだ。このころちょうどRPGが流行りだし、これをプレーした内藤氏もこのおもしろさにはまってしまった。実は参考にしたのは名作「ザ・ブラックオニキス」。ハイドライドの体力メーターなどはブラックオニキスからアイデアを拝借しているそうだ。そしてこのような要素を付け加えていったところ、ハイドライドが完成したということである。




おまけ2:ハイドライドのプログラムテクニック(ちょっと専門的です)

ハイドライドを見たときに驚いたのは、きれいなキャラクターが背景ときれいに重なり、それが88mk2でもスムーズに動いていることだった。正確にいうと、背景パターンとキャラクターパターンの前後がはっきり区別されており、キャラクターが木に隠れ、水の中に没するというものである。それまでの88のゲームで見られる背景との重ね合わせとは、「アルフォス」に代表されるようなパレットチェンジを使ってキャラクターを重ねるというもので(詳しくはアルフォスの項を参照のこと)、このためにキャラクターの色が3色に限定されるなどの制約がどうしても付きまとっていた。
この重ね合わせは、マスクを用意しておき、背景のキャラクターに隠れる部分を黒く抜いておき、キャラクターをその中にはめ込むというテクニックが使われている(図参照:出典PCマガジン1989年1月号)。

このような切り抜いたり、はめ込んだりという作業は、PC8801mk2SR以降の機種ではALUが自動的に行ってくれるのだが、88初代、88mk2の場合はメインメモリバッファ上で、ANDやOR演算を使って重ね合わせをしてからVRAM上に転送するという作業をしている。
VRAM上で重ね合わせの作業を行わず、わざわざバッファを用意しているのは、
1.敵キャラクターは画面の端にいるときに半分しか表示されないこと。この処理のためには、重ね合わせと表示の両方のプログラムで画面内に収まるかを調べなければならず、プログラムが大きくなってしまう。
2.88SR以前の機種でVRAMを読み書きすると、スピードが3~4倍遅くなってしまう。
3.スライムとコボルトでは大きさが違う。VRAM上で異なった大きさのキャラクターを扱うと、プログラムが大きくなり、遅くなる。
4.直接VRAM上で論理演算を行うと表示の際にちらつく。
といった原因のためである。

続いてマップデータだが、こちらも16×8ドットのグラフィックパターンに分割して管理している。ただ、膨大なマップをすべてグラフィックデータとして管理していたのではすぐにメモリが足りなくなってしまう。そこで分割したパターンの一つ一つに番号をつけ、その番号を並べることでマップ中の各ブロックを管理するという方法をとっている。こうすれば広大なマップを少ないメモリに押しこむことが可能になる。このテクニックは後のほとんどのゲームに使用されていた(「ザナドゥ」や「イース」など)。
この他にも、ディスクから1度読み込んだきり、アクセスしない(つまりハイドライド自体がすべてオンメモリで動いている)のは、驚くべきことであった。ちなみにタイトルの妖精さんのデータ(48KB)はもちろん最初に読み込んでメモリからは消え去る。ハイドライドは、キャラクターが32KB使っており、残りのメモリ上にプログラムデータ、40画面分のマップデータがあったのだ。先に書いたマップデータの持ち方、ディスク制御用のサブシステム側にも一部データを置いたりして解決しているのだが、そのプログラムテクニックは後のゲームに大いに影響を与えたと思われる。(Y.ROMI)

参考:テクノポリス86年、ログイン85年、PCマガジン89年7月号より引用
内藤氏の写真:ログイン85年6月号P.122より引用

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