殺人倶楽部 by 平井氏
リバーヒルソフトより1986年8月に発売
一人一人が持つ過去という名のドラマ
古くから、刑事物のAVGというのはポピュラーな題材だった。”犯人探し”というシチュエーションは、ストーリーを楽しめる上にプレイヤーを思考させるギミックをうまく散りばめやすいからだ。それは時間のトリックであったり、隠してある物(証拠品や次に進むためのアイテム)を探し出すことなど、いろんな意味で謎を存在させやすい。
AVGの”冒険する”という意味よりも、RPGの”役割を演じる”という意味合いの方が強いのだが、”犯人を捜す”という思考がメインな為か、AVGというジャンルに入ることが多い。それは『ポートピア連続殺人事件』や、『鍵穴殺人事件』などに代表されるAVGをとってみても言えることだと思う。
しかし、『殺人倶楽部』が発売されるまでの多くの刑事物AVGは、設定が薄い物が多かった。登場する人物達のなかで細かく人物の設定が表現されているのは、犯人ぐらいだったろう。もしくは、「誰かが誰かを憎んでいる」ぐらいなものである。だが『殺人倶楽部』は違った。このゲームの特徴の一つでもある『人物設定』がきめ細かく作られていた。
登場する殆どの人物達(約30人!)には、名前、住所はおろか、血液型・趣味・生活環境・人物関係などが、設定されていた。そしてその人物達が複雑に絡み合っている関係をプレイヤーが自らの手で聞き出し、探し出し、結びつけていくのである。この情報量が半端じゃないのだ。それを根気よく集めていかなければ、このゲームの犯人はつかめない。コマンド選択式のゲームなので、全てを選択していけば解けると考えていると、このゲームは面倒くさいとしか思えないゲームになってしまう。
しかし、こまめにメモを作っていけば、そのメモが自然と人間関係を浮かばせ、そこにはゲームの中で確立された状況が浮かび上がる。今までの中になかった、リアルな人間関係という世界がこのゲームにはあったのである。
ちゃんと家宅捜査をするときには令状を取らないといけない。その令状も捜査が進展していないと出ない。証拠品は鑑識にまわして詳しい情報を集めて、更に聞き込みをする。それまでの殆どの推理AVGでは、勝手に入って物を物色して見つけた物を突き出して「お前犯人だろう」「い、いえ違います・・・」なんていうやりとりが見られた。しかしこのゲームは、ちゃんとした状況証拠があり、令状がでなければ取り調べもできない。ちゃんとした刑事の捜査スタイルにのっとっている。
しかし、世界がリアルなだけでは、面白いゲームとは言えない。このリアルな世界をベースに描かれたドラマが、このゲームの醍醐味なのだ。ゲームの中の人物達は、それぞれ実際に生活しているような錯覚を起こすほど、人を愛し、憎しんでいる。そして主人公であるJ・Bも過去の傷に苦しみながらも”生きて”いる。この、登場人物が持っている過去を疑似体験できることが、このゲームの面白さなのである。
色々な人物と会う度に浮かび上がるドラマ=過去。そのに人物が何を考え行動しているかということを、自分自身の手で知ったときこそが、このゲームをプレイしていて心を動かされる瞬間なのである。
続編も出てシリーズ作品となったが、この人間ドラマがプレイヤーに対して心を動かす作品だったからだと私は思いたい。
ちなみに私はこのシリーズをプレイするときには、必ずウイスキーを飲みながらプレイする。それは心地よいBGMを聴きながら、このゲームの世界に酔いたいからである。・・・なんてね(逝)
<文章:平井氏>
殺人倶楽部を作った人
殺人倶楽部を制作した中心人物は、リバーヒルソフトの女性デザイナー、鈴木理香氏である。鈴木氏はPC88で数少ない女性ゲームデザイナーであり、その先駆者である。彼女は博多生まれの博多育ち。高校時代は考古学部、美術部などに所属し、考古学者、図書館の学芸員、レイアウターといった職業にあこがれていたという。その後、福岡大学に進み、文化人類学を学び、サンリオに入社。そこで後にリバーヒルソフト社長となる岡崎氏に出会った。
一方、サンリオに入社していた岡崎氏は、根っからのパソコンマニアで、30歳になると8年間勤めていた会社をやめ、リバーヒルソフトを設立してパソコンソフトの制作に乗りだした。サンリオの後輩であった鈴木氏などを含めて、3人で会社をはじめたのだという。会社設立当時、たまたまソフトの作り手を探していた東京のユニオンプランニングとの間で話がまとまり、企画・リバーヒルソフト、制作・ユニオンプランニングという形でソフトを販売することになった。
参考文献:テクノポリス87年5月号P.113より一部引用
「殺人倶楽部」に関連するすべての画面写真、パッケージ写真の著作権はリバーヒルソフトに帰属します。
鈴木氏がパソコンと出会ったのは父親がMZ-80Kを購入したときだというから相当古い。そのときの印象は「これがコンピュータ。おもしろくないわね」。そしてサンリオ時代に巷で流行っていたパソコン教室に通ったのがきっかけとなり、彼女のコンピュータ観は大きく変化した。たった4日間であったが、PC-8001の複利計算プログラムなどを学び、その後、すぐに見よう見まねでゲームを作った。もともとコンピュータゲームには興味がなかったのだが、パソコンをいじっているうちに、説明書どおりに動かせば、絵も描けるし、動かせるという部分でなにかを感じ取ったのだろう。アクションゲームにはほとんど興味がなかった鈴木氏だが、「ミステリーハウス」や「鍵穴殺人事件」といったゲームには自然と興味が沸いたという。
最初に制作したソフトが「ズームインスペース」、「アストロジースクランブル」。そして九州大学の地震研の学生と協力して作ったのが「巨大地震」だった。しかし、これらのソフトはあまり売れなかった。このころは、マシン語部分を岡崎氏が担当し、鈴木氏がBASICでプログラムを書くほか、ドットでグラフィックを描き、セル画までこなしたという。元々推理小説が好きだった鈴木氏は、シンキングラビットの「鍵穴殺人事件」に刺激を受け、自分たちもこんなソフトを作ろうと考えた。そして制作したのが、「黒猫荘相続殺人事件」。尋問したり証拠を集めたりするプロセスはどこか「鍵穴殺人事件」を匂わせるものがあった。
しばらくして、大阪のCSKから「リザード」を移植しなかという話がリバーヒルに舞い込んだ。いままで販売をユニオンプランニングに委託していたため、ユーザーからのフィードバックが戻らないという不満を感じていた岡崎氏らは、これを機に自分たちでソフト販売もすることを決断する。そして「ゾーディアック」、「アグレス」を制作した後、1986年の3月「殺人倶楽部」の制作に取り掛かることになった。
殺人倶楽部は、リバーヒルの顔になるソフトを作ろうという意気込みがあったらしく、鈴木氏は自社ソフトの制作の見なおしから開始した。それまでのリバーヒルソフトは、3ヶ月に1本というハイペースでソフトを制作していた。これはメインをBASICで作ってきたからという理由によって可能であったのだが、これではスケールの大きいものはできない。そこで、オールマシン語で時間がかかってもいいから、スケールのでかいものを作ろう、ということになった。
いままでプログラムも担当していた鈴木氏は、シナリオデザインに専念することになった。一方岡崎氏らは基本的に設計の作りなおしを検討。企画だけで2ヶ月を費やした。鈴木氏は、殺人倶楽部を作る際に、「解けないゲームは作らないようにする」「いかにユーザーをエンディングまで導くか」という点を考えたという。また、シナリオデザインに徹底的にこだわった。登場人物の性格、経歴などを細かい点まで決めていく。また、事件の背景なども丁寧に構成していく。たとえば、誰それという人物は、何歳で殺されたが、生前はどんなことをしていた人間で、結婚したのはいつごろ、さらに血液型からクセ、身長体重まで、人物に関するあらゆる情報を考え出し、ファイルを作成する。そしてそれらの人物のラフなイメージイラストまで描く。そして人物関係図をこしらえていき、岡崎氏やスタッフに説明をしながら、練っていく。その一方でグラフィックの担当者に文字と話でイメージを伝えていく。背景に出てくる店の室内ひとつをとってみても、気軽に飲みに行く店とか、盛装していくところとか、店の窓から川が見えるとか・・こんなことを全部決めていった。さらにワープロでメッセージをこしらえていくのも鈴木氏の仕事。また、アメリカの犯罪史や実際にあった事件を徹底的に読んでいったという。その仕事ぶりは相当のものであったのだろう。こうした労力が、殺人倶楽部を優れたアドベンチャーゲームに仕上げ、全機種で2万本以上の売上を記録したヒットゲームとなったのである。
鈴木理香氏の写真:テクノポリス87年5月号P.113より引用