キュービーパニック/CubyPannic(85年,4)
ファミリースタジアム ペナントレース版/Family Studium(88年,11)
ファミリースタジアム89/Family Studium(89年,10)
アスキーなどでプログラマーとしてアルバイトしていた宮路氏、池田氏など技術力のある人間が集まり、1985年の3月に株式会社ゲームアーツを設立した。資本金は420万円で、社員と当時7名。しかし、その7名の平均年齢は21歳、メンバーのほとんど全員が筋金入りのマイコン少年、プログラマーであった。社長の宮路洋一氏は、高校2年生のときに友人の上坂氏(当時アートディレクター)のが買ったMZ-80を強引に借り、弟の武氏(取締役)にプログラムをまかせ、自分はマネージメントをはじめるようになった。このころにシナリオライター、アイデアマンなどとコンタクトを取り、プログラマーと打ち合わせるという企画営業の下地が出来上がった。上坂氏はこれ以降、宮路兄弟の作るゲームキャラクターを担当していた。池田氏(伍代響氏)も若い頃からのパソコン少年で、アスキーのゲーム制作部で宮路氏らとともにアルバイトしていた。そのときの代表作が有名な「AX」シリーズである。そして、アルバイトでは自分の思い通りのゲームが作れないという理由で、自分たちでソフトハウスを設立したという経緯。会社設立と同時に発売した「テグザー」は88SR専用のゲームだったにも関わらず、大ヒットした。 他社とプログラム技術の差で勝負しようという技術集団。シルフィードの発売が1年以上も延びたことから、採算よりも完成度をとるという方針は、当時の他のソフトハウスには見られないものであった。ただ、後年はけっこうはずしたものが多かったのが残念だ。