1982年から1984年まで
PC-8801の登場
PC8001は、それまでのパソコンに比べて「扱いやすい」という印象をに与え、さらに値段も手に届く範囲だったことから、多くのホビーユーザーの関心が急激に高まっていった。また、80年以降、パソコン用のソフトウェアが出回り始めたことにより、いままでコンピュータの知識のある人だけがパソコンを動かせたのに対し、大人から子供まで個々の目的に応じた使いかたが可能になり、ホビーだけでなく、会社の業務にも利用できることが一般の人にも理解されはじめた。そしてPC8001は1981年末の時点で10数万台を売り上げる大ヒットとなっていた。
この強力なライバルに対するNECの回答が初代88であった。初代88は、PC8001とのソフトウェアとの互換を保ちつつ、64KBのワークエリア、解像度が「640×400」の漢字表示が可能(モノクロ)、つまりFM-8の倍の行数の漢字を、画面に表示できる機能を搭載して登場したのである。
上記からも分かるように、初代88はビジネスユースに対応できるよう設計開発された。ホビー分野をその使用目的として設定しなかったのは、本体のみで228,000円という値段と、明確にホビー向けを謳ったPC-6001がすでに89,800円という値段で発売されていたためである。
こんな中、1981年12月(発表は11月)にPC-8801(以後初代88と省略)が産声をあげた。初代88はPC8001の上位機種として登場し、その特徴は、グラフィックの高解像度化、漢字の使用が可能、ワークエリアの拡大、周辺機器の充実が主なものである。実は初代88が発売される少し前に、富士通から「FM-8(富士通マイクロエイト)」が発売された。FM-8は「6809」というCPUを2つも搭載し、解像度が「640×200」で漢字表示が可能など、当時としては脅威的な画面の美しさを誇っていた。特に漢字を表示でき、ワープロにもなるという点において、NECをリードしたのである。
88用ゲームの登場
初代88(以降の88シリーズも)のグラフィック画面は「640×200」ドットで、ドット単位で8色の表現が可能であった。そして最大の利点はやはりPC8001で培ったソフトウェアを継承しているという点にあるだろう。富士通の「FM-8」はソフトがなかったために、NECの牙城を切り崩すことができなかった。
このころのパソコンの勢力を決めていたのは、ゲームであった。そしてゲームの主流は、ゲームセンター(アーケード)のゲームである。当時、家庭用ゲーム機には高機能なものがなく(まだファミリーコンピュータは発売されていない)、ビデオゲームに近いものが楽しめるのはパソコンだけであった。CPUが8ビットであり本格的なビジネスプログラムの構築が困難なことも、パソコンの使用目的を限定させて、ゲームメインの方向へ進ませた原因の1つである。
ソフトの総売上の9割以上がゲームソフトの売上であった初期の業界において、芸夢狂人氏や中村光一氏などのプログラマーが人気ゲームを次々と発表したことはPC8001の売上に多いに貢献した。しかし、初代88の特徴である美しい画面を使ったゲームは当初なかなか登場したなかった。1982年になると、初代88のメインユーザーであると思われるサラリーマンを対象にした「ウルトラ四人麻雀(ツクモ)」(写真)が発売され、これが88としては最初のヒットとなった。麻雀ゲームや花札ゲームといったテーブルゲームは当時から多くあったが、その牌やカードをいかに美しくみせるかという点において、88は他の機種よりも圧倒的に美しかったのである。
1983年2月に、第1回エニックスホビープログラムコンテストが行われ(詳しくはコンテストを参照)、このコンテストの上位2作品がいずれも88専用のゲームで占められた。1つは「森田のバトルフィールド(森田和郎氏作)」、もう1つは「ドアドア(中村光一氏作)」(写真)である。特に「ドアドア」は、グラフィックの美しさもさることながら、そのゲーム性、キャラクター、すべてにおいてパソコンゲームが長年追いつづけたアーケードゲームと比べても遜色ない出来映えで話題になった。「ドアドア」の出現により、88の潜在的な能力は世間の知るところとなり、88がゲームマシンとしての道を歩み始めたともいえる。
エニックスのコンテストの大成功により、それまで商売として成り立つか分からなかったパソコン市場が大きく成長し、新興ソフトハウスが次々に設立された。主なところでは、「ボーステック」「システムサコム」「シンキングラビット」(写真)など、後のパソコンゲーム業界を支えた会社である。また、ソフトハウスが設立されるにつれ、ソフトウェアを雑誌などから打ち込んだり、自分でプログラミングするというスタイルから、売っているアプリケーションを購入して使う、というスタイルに変化していった。
市販のソフトハウスから発売されるゲームは圧倒的に88をターゲットにしたゲームが増えていった。これは、ソフトハウスが主催していたソフトウェアコンテストに入選したソフトの多くが、88専用に作られていたことが挙げられる。88のCPUはPC8001やシャープのMZシリーズと同じ「Z80」互換を採用しており、古くからのプログラマが培った技術をそのまま使えるマシンが88しかなかったためである(FM-7,FM-8のCPUは「6809」、X1は「Z80」だが88に出遅れている)。ゆえにソフトハウスは88を自然に開発の中心機種に位置付け、「これだけソフトがあるなら、88を買おう」という相乗効果もあって、88の売り上げはどんどん伸びていった。
PC-8801mkIIの登場
1983年はパソコンゲームにとって大きなターニングポイントになった年であった。88がパソコンゲームの中心に成りはじめ、さらに美しいグラフィックをもったアドベンチャーゲームが出現し、「ドアドア」、「アルフォス」に代表されるアーケードゲームに負けない完成度をもったゲームも出現した。このような時代の流れを察知したNECは、88のメインユーザーをビジネスユーザーからホビーユーザーへと切り替え、新たにビジネス向けマシンとしてPC-9801(1982年に発売)路線を発売した。
NECは初代88のコストダウン機として、1983年の11月にPC-8801mkII(以後mkIIと略す)を発売した。mkIIは、いままで別々だった8801本体、PC-8031フロッピーディスクドライブユニット、漢字ROM(JIS第一水準)をすべて一体にしたものである。新しいハードウェアの追加、それに伴うソフトウェアの拡張はほとんど行われていない。mkIIはフロッピーディスクドライブの装備数によって3タイプがリリースされ、model10はなし、model20は1基、model30は2基という構成であった。値段は、model10が168,000円と大幅にコストダウンされ、model20でも228,000円と初代88と同一の金額である。
mkIIは当時、新機種として期待された割には、実際ほとんど機能自体には拡張はなかったといえる。これは次の理由が推測される。1983年~84年はまだ88というマシンが他のマシンと比べ、遜色ない機能を持っていた。そこでハードの機能拡張をせずに、88を息の長いマシンにするためにソフトの充実を図ったのであろう。もしこの時点で大幅に機能を拡張していたら、ソフトを作るメーカー側としても、新しいハードが市場に広がるかも分からずに当惑し、88離れをおこした可能性もある。結果として、1つのハードを大切にしたNECが戦略的に成功したと言えるのではないだろうか(次機種の88mkIISRには愕然としたが)。ちなみにmkIIは84年末までに約17万台が出荷された。
※mkIIの拡張機能について
mkIIにソフトウェアの拡張がほとんどされていないと書いたが、実は拡張N88-BASICパッケージをテープまたはディスクか読みこむことで、5つの拡張命令を追加することができた。拡張命令は、高速画面クリア、タートルグラフィックス、サウンドなどの強化機能なのだが、この機能を使った市販ゲームはほとんど発売されなかった。
新参ソフトメーカーの台頭
1983年は、新しいソフトハウスが胎動しはじめた年でもある。まず「THINKING RABBIT」が1983年の6月に設立した。創業時の社員数はなんと4人。営業スタッフはおらず、雑誌広告と販促ポスターを作ったくらいで、特に営業活動らしいものはしておらず、すべて代理店にまかせていた。代表の今林氏は、自分で遊んで楽しいものでなければ作りたくないし、年4本くらいのペースで開発できればよいという「儲けよりも作っていて楽しいものを」という個性的な人であった。THINKING RABBITはこの年、「倉庫番」(写真)、「鍵穴殺人事件」という2つのゲームを発売し、いずれも好評であった。
また、1981年に創立された「システムサコム」もこの年、ゲームソフト市場に参入している。システムサコムは元々マイクロコンピュータ周辺機器の設計、製作を目的とした会社であったが、技術部長の佐藤氏がマークフリントという不思議な外人と知り合ってから(実際、マークフリント氏に関しては詳細は不明)、ゲームの開発を始めたらしい。ゲームはあまり市販するつもりもなく制作したらいが、いざ発売してみると、ひょうたんから駒という具合になかなかのヒットを飛ばしたのであった。このとき発売したのがPC-9801で初めてのゲームと言われている「VALIANT」(写真)である(88用のゲームは1985年の「メルヘンヴェール」が最初となる)。
この他にも古くから創業しているが、この年にブレークした会社も多い。1982年に「ミステリーハウス」発売した四日市マイクロキャビンも、この年には同ゲームを多機種へ移植したり、「ドリームランド」、「忍者君」、「ミッドナイトコマンダー」などのさまざまなゲームを発売して活動を広げたし、「キャリーラボ」、「日本ファルコム」などといった後の大手ソフトハウスもようやく産声をあげてきたのである。
1983年に売れたソフト
1983年度で人気のあったソフトは何だったのだろうか?当時のPC-Magazineの年間ベストゲームから見てみよう。
順位 | ゲーム名 | メーカー名 |
第1位 | ウィザード&ザ・プリンセス | スタークラフト |
第2位 | ウルトラ四人麻雀 | ツクモ |
第3位 | ドアドア | ENIX |
第4位 | プロ野球スーパーシミュレーション | JDS |
第5位 | 倉庫番 | シンキングラビット |
第6位 | マッハ3フライトシミュレータ(98) | ソフトバンク |
第7位 | ヴァリアント(98) | システムサコム |
第8位 | ドリームランド | マイクロキャビン |
第9位 | 3Dゴルフシミュレーション | T&ESOFT |
第10位 | アルフォス | ENIX |
「ドアドア」の発売に始まった1983年。その後の固定画面アクションゲームは数多く発売され、それなりに売れたものも多かったが、爆発的にヒットしたものは少なかった。それよりも1983年はパソコンゲームに"アドベンチャーゲーム"という新たな息吹が吹いた年だった。アドベンチャーゲームは、スタークラフト社のアップルIIからの移植シリーズに始まった。「ミステリーハウス」(マイクロキャビン製のものとは違うので注意)、「ミッションアステロイド」、「ウィザード&ザ・プリンセス」といったところが有名であるが、いずれもディスク版のみの発売で高額であったことから、中高生には手が出ない高嶺の花であった。
1983年の後半になるとようやくアップルIIの質にせまるような国産アドベンチャーゲームが少しずつ登場し始めた。「ポートピア連続殺人事件」、「デゼニランド」、「ドリームランド」などである。これらのゲームはテープ版も発売されたために多くのユーザーが手軽にプレイすることができ、アドベンチャーゲームブームを大いに盛り上げていった。アドベンチャーゲームは、それまでのアーケードゲームにはなかったジャンルのゲームである。つまり「パソコンを持っている人だけの楽しみ」であった。いままで"アーケードの出来損ないのゲームを代替するだけの存在"であったパソコンゲームが、それまで体験したこともないような、"全く新しいタイプのゲームをプレーできるマシン"へと変貌したのである。1984年末まで大いに盛りあがることになる「アドベンチャーゲームブーム」は、それまでのパソコンゲームユーザーのアーケードゲームに対する鬱憤を晴らすかのようでもあった。
最も多く発売されたのは、やはりアクションゲームであったが、本当に遊べたと思われたものは、「ドアドア」、「アルフォス」ぐらいであろうか。他では「倉庫番」が一風変わったパズルゲームとして人気を集めた。
量から質への転換期
1983年から1984年にかけて、パソコンソフトメーカーが次々と設立され、ゲームの発売数もみるみるうちに増えていった。このころのゲームは、まだ雑誌レベルの質のゲームもかなりの数が存在し、ソフトメーカーのゲームといっても優秀なプログラマーが1人でゲームを制作し、それをメーカーの名前で発表しているようなものが圧倒的であった。
ちなみに1984年は、PC8801用のゲームが最も多く発売された年だった。このころのパソコンゲームは、1つのゲームに対する開発期間が短く、1人のプログラマーが1つのゲームを製作するために人件費もあまりかからなかった。現在(2000年)のゲームの開発期間や人件費を考えると、このころの1本のゲームの開発にいかにお金がかからなかったであろうことは容易に想像できる。また、ソフトの定価もテープ版で3800円前後、ディスク版で6800円前後と、現在と比べてあまり変わらない。また、出せばとりあえず一定量は「売れる」という市場状態であったため、各社とも手抜きソフトを乱造する傾向にあった。
しかし1984年の半ばにもなると、出せば売れるという粗製乱造の時代から、価格に見合った質の高いゲームソフトが徐々に求められるようになった。これは、ユーザーのゲームに対する目が肥えてきたことによることが大きいだろう。
ちなみに1984年で最も売れたソフトは、システムソフトの「ロードランナー」(写真)だろう。ゲームソフトの寿命が3ヶ月といわれる中、優に1年間はひたすら先頭集団の中を走りつづけた驚異のソフトである。「ロードランナー」について詳細は「リアルタイムゲーム総括」を参考のこと。「ロードランナー」は、アップルIIからの移植ゲームであり、これ以外にも「チョップリフター」、「David's Midnight Magic」(以上はシステムソフトから発売)、「A.E.」、「マイナー2049」(コンプティークから発売)などの移植ソフトが発売された。このころのパソコンユーザーは、雑誌の影響もあってアップルIIにあこがれを抱くものが多かった。特にアドベンチャーゲーム、ロールプレイングゲームという2つのジャンルのゲームが、すでにアメリカでは主流となっており、これらの話はユーザーの興味を大いに惹いた。特にロールプレイングゲームに関しては「ザ・ブラックオニキス」が流行するまでは、雑誌の情報を頼りにどんなゲームか想像するくらいしか手がなかった。
1984年もアドベンチャーゲームがスタークラフトの移植物を筆頭に大ブームであった。「サラダの国のトマト姫」(写真)、「ザース」、「ウイングマン」、「デーモンズリング」など秀作を挙げるときりがない。また、新規参入のソフトハウスが続々とアドベンチャーゲームを発売したため、1984年後半になるとアドベンチャーゲームも供給過剰になり、ロールプレイングゲームブームにも押されて次第にユーザーが離れていくことになった。
参考文献:
画像 PC8801 FM8 虎菊氏より提供
画像 PC8801mk2のカタログ ささじぃ氏より提供
画像 シンキングラビットのマーク 電視遊戯大全より引用