パソコンゲームコンテストについて
パソコンゲームの質をあげたコンテスト
1983年から1984年にかけて、パソコンゲームコンテストが非常に頻繁に行われた。パソコンゲームコンテストというのは、個人が作成したゲーム(ビジネスソフトやユーティリティソフト、開発ソフトなども対象にしているものも多い)を多額の賞金によって自社に集め、その版権を購入して自社ブランドして売ってしまうという商売である。もちろん著作権使用料として作者にも多額のお金が転がり込むしくみである(各社によって著作権使用料の取り扱いは異なっていた)。個人が作成したゲームを自社ブランドとして発売するという意味では、82年代から主流であった「ショップブランド」の販売方式と変わりはないが、コンテストとして多額の賞金を提示することにより、より優秀な作品を自社に集めることができたのである。
1983年から1984年にかけて行われた主なコンテストを以下に示す。ザッと拾いあげただけでもこれだけのコンテストが行われていたというのは、あまり知られていない事実である。というのも、すべてのコンテストが成功しているわけではなく、作品の集まり具合が悪くて、いつのまにか尻すぼみになっていったものや、作品の質が悪くて有力な商品を生み出せなかったコンテストがたくさんあるのである。つまり、コンテストという商売は、主催者側に立てば,非常にリスキーなものであった。
反面、コンテストが成功した会社は、多額の利益を得て急成長した。また、コンテストを契機に、プロへの第1歩を踏み出した人も数多くいた。この時期のコンテストで業界に入り、現在も活躍している人も多いだろう。
コンテスト主催メーカー コンテスト名 年代 コンテスト内容/結果
株式会社パラレルクリエイション アドベンチャーゲームコンテスト 1982年 「タイムジャッカーを追え!」のシナリオを利用したアドベンチャーゲームを作るコンテスト
ラオックス 第一回NECディスクソフトコンテスト 1982年 優勝 NEC PC9801基本セットなど。このコンテストで「ファイアードラゴン」、「The Far way」などが入選したと思われるが詳細は不明。
サン電子 TVゲームアイデアコンテスト 1982年
工学社 I/Oプログラムコンテスト 1983年12月 賞金は1000万円(15名) 工学社 I/Oプログラムコンテスト(2次募集) 1984年 賞金は1000万円(15名) 日本児童教育振興財団・小学館 第一回青少年マイコン・プログラムコンテスト 1983年12月20日 最優秀賞1名 30万円 入賞「ゆうやけこやけ」 パソコンショップCPU プログラムコンテスト 1984年5月 最優秀賞2名 50万円
新紀元社・PCマガジン PCハンドヘルド・プログラムコンテスト 1983年 PC-2001、PC-8201用のプログラム。最優秀賞1名 100万円
こども科学館ソフトウェアライブラリー 横浜こども科学館パソコンソフトウェア募集 198?年 テーマは自由だが、「こども」「宇宙」「横浜」に関すること 特選:バンクーバーに招待。
マイクロキャビン パソコンドリーム第一回アドベンチャーコンテスト 1983年 最優秀賞:100万円(1名)。「ゴーストハウス」などが入選。 マジカルズゥ アドベンチャーコンテスト 1983年 最優秀賞:30万円、入選作として「黄金の墓」、「ムー大陸の謎」。 ENIX 第一回ゲーム・ホビープログラムコンテスト 1982年 最優秀賞:100万円 賞金総額300万円。最も成功したコンテスト。「ドアドア」、「森田のバトルフィールド」、「マリちゃん危機一髪」などが入選。 ENIX 第ニ回ゲーム・ホビープログラムコンテスト 1983年 「ファンファン」、「ドクロンの館」などが入選 ENIX 第三回ゲーム・ホビープログラムコンテスト 1984年 「ザクサス(JAIL BIRD)」、「森田和郎の将棋」、「東京ナンパストリート」などが入選。 アンプルソフトウェア 日本ソフトウェア大賞 198?年 年間最優秀賞:80万円とグアム7日間の旅 デザインハウス「ファイン」 プログラムコンテスト 198?年 賞金200万円、諸権利はデザインハウスに所属 ポニー ポニー 第1回プログラムコンテスト 1983年 最優秀賞50万円。「スリーピーシェリフ」、「セイバーパート1」などが入選。 ポニー ポニー 第2回プログラムコンテスト 1984年 300万円(21名)。「ペンギンビレッジ」、「ワンダーハウス」などが入選 ポニー ポニー 第3回プログラムコンテスト 1984年 「スラローム」などが入選 ボーステック ボーステック プログラムコンテスト 1983年 総額300万円(13名)。「妖怪探偵ちまちま」、「EGGY」などが入選 POPCOM プログラムコンテスト 198?年 110万円(27名)。版権はPOPCOM誌に帰属 原宿音楽祭実行委員会 原宿パソコンソフトコンテスト 1983年 総額160万円(6名)。版権は作者に帰属 アスキー 第1回アスキゲームコンテスト 1984年 総額2000万円(65名)。「ボコスカウォーズ」などが入選。 アスキー 第2回アスキゲームコンテスト 1984年 総額2000万円(65名)。「コロン」、「ザ・キャッスル」などが入選。 アポロテクニカ パソコンプログラムコンテスト 1983年12月 総額250万円(8名)、ウエストコーストに招待。 コンプティーク 里見八犬伝ゲームコンテスト 1984年 総額150万円(10名)。里見八犬伝に関するゲーム、シナリオなどのコンテスト テクノポリス コンテスト 1984年 最優秀賞「風の谷のナウシカ」、優秀賞「ななこSOS」など。 東宝 東宝特撮ゲームソフトコンテスト 1984年 ゴジラ賞 20万円 レーベンプロ レーベンプロシナリオコンテスト 198?年 入賞「LAST WAR」など。
クリスタルソフト クリスタルソフトコンテスト ?年 詳細は不明 キャリーラボ WICS PROGRAM CONTEST 1982年 キャリー賞 10万円 佳作2万円「ジャンピングフロッグ」などが入選 光栄 第2回北関東マイコンショー記念懸賞付ゲームプログラムコンテスト 1982年11月 1等 20万円 コンピュータイレブン プログラムコンテスト 1983年5月 総額210万円
コンテストで成功したエニックス
コンテストで最も成功した会社はエニックスである。1982年9月に設立した同社は、他社に先駆けて「第一回ホビープログラムコンテスト」を行った。コンテストの賞金総額は300万円とかなり高額のコンテストであった。このようなコストをかけてコンテストを行い、果たしてそれに見合うだけのソフトウェアを集めることができるのか? これは未知の商売方法であり、エニックス自身も成功するか賭けであったろう。
エニックスのコンテストは、運よくNHK特集で取り上げられたことにより、全国的に宣伝された。また、エニックスの千田専務が、コンテストのために当時雑誌で著名だった数々の有名プログラマー(森田氏や、中村氏)を熱心に勧誘し、レベルが非常に高い作品が集まった。コンテストの成功の影の立役者として、千田専務の力は非常に大きいものであった。また、コンテストの発表は1983年1月15日の朝日新聞紙上で行われ、まだパソコンゲームに馴染みの薄かった一般の人にもアピールした。コンテストの応募総数は316本で、この中から最優秀賞に選ばれたのは、後に「森田和郎の将棋」、「リグラス」、「獣神ローガス」などを作った森田和郎氏の「森田のバトルフィールド」である。森田氏はPC-8001全盛期から最強のオセロプログラムを発表したりして、「アルゴリズムの森田」の異名を誇っていた逸材であった。続いて優秀賞に輝いたのは、当時高校生だった中村光一氏が制作した衝撃のゲーム「ドアドア」。中村氏は、コンテスト以前から雑誌I/Oやツクモ電機にPC-8001用のプログラムを多数開発していた実力者であった。さらに、あの「堀井雄二氏」もPC-6001用のゲーム「ラブマッチテニス」で入選している。ただ、この時点で堀井氏は他の入選作品の影に埋もれて目立つことはなかった。堀井氏の才能が開花したのは、83年の秋に発売された「ポートピア連続殺人事件」からである。この後、「オホーツクに消ゆ」、「軽井沢誘拐案内」とヒットゲームを飛ばし、ファミコン史上最大のヒットした「ドラゴンクエスト」のシナリオを担当することになる。以上の応募者とゲーム内容からみて、このコンテストは今振り返ってみるとパソコンゲーム史上、またとない多くの人材と優秀なゲーム群にめぐまれたものと言えるだろう。特に中村光一作の「ドアドア」はこれまでのパソコンゲームの一歩も二歩も上を行くゲームであり、これまでのパソコンゲームの常識を変えてしまったものであることを明言しておく。
この後、エニックスは、春休みや夏休みを利用してプログラム開発に取り組めるよう、4月と9月にコンテストを定期的に実施していった。「第2回ホビープログラムコンテスト」では、後に宮田氏の「FANFUN」が大賞に、また「芸夢狂人の宇宙旅行」で、雑誌の常連ブログラマーとして有名な芸夢狂人氏がエニックスに引き抜かれた形となった。
ボーステックの場合
ボーステックは1984年の2月に設立された。社長の八巻龍一氏は、ワンボードマイコンTK-80時代からマイコンを趣味とし、マイコン関係の仕事に将来つきたいと思っていた。大学卒業後、株式会社アスキーに内定をもらうが、家の事情で、父親が経営する会社に勤めることになった。しかし、夢はどうしても捨てられず、3年間の後に脱サラする状態で自ら会社を設立した。たった2人で始めた小さな会社でプログラマーなどいない。そこで思いついたのが、コンテストで優秀な作品と人材を集めることであった。ボーステックは設立後、すぐに「第1回プログラムコンテスト」を賞金総額300万円で実施した。このときの投資額は2000万円とも言われている。当初は200本程度の応募を見込んでいたが、実際に集まった作品は130本であった。最優秀賞にはアレックスブロス氏(2人の合作)の「ちまちま」、優秀賞に「EGGY」(PC-6001用)、「TROP WAY」などが入選した。これらの作品はユーザーの目が肥えてきた時期でもあり、そのまま発売せずに、作者と改良を重ねて発売したものが多い。また、「ちまちま」のアレックスブロス氏(「黄金の墓」の作者の大浦氏など)と「EGGY」の青木氏をこのコンテストで社員として迎えることにも成功している。このあともボーステックでは、一般ユーザーから投稿作品を募り、このような出身者を中心にボーステックは作品を発表していくことになる。
マジカルズゥの場合
1981年に家庭教師派遣業からスタートしたストラットフォードコンピュータは「アドヴェンチャーゲームコンテスト」を開催した。同社は主に教育用のCAIソフトを制作・販売していた会社であったが、1983年に同社のホビー部門のブランド「マジカルズゥ」の発足を記念してこのコンテストを開催したそうである。このコンテストの最優秀賞は賞金30万円であった。このコンテストは他のコンテストとはちょっと違っていて、はじめに4種類のイラスト(後に「黄金の墓」の表紙になったような絵)とタイトルを用意しておき、そのイラストに対応する内容のアドベンチャーゲームを制作するというものだった。このコンテストの応募総数は約30本で、最優秀賞に選ばれたのは井上潤氏と大浦由貴氏共作の「黄金の墓」であった。その他にもこのコンテストで「ムー大陸の謎」などの国内としては優秀なアドベンチャーゲームが登場した。ちなみに「黄金の墓」は、「ツタンカーメンの謎」という題材で募集されたゲームであった。「インカ帝国の謎」という募集もあったのだが、残念ながら該当者なしであった。ちなみに井上、大浦両氏は、たまたまそれまで勤めていた会社が倒産していたこともあって、そのままストラッドフォードの社員となって、開発スタッフに加わってしまったらしい(ただこの大浦氏、このあとアレックスブロスという名前で、ボーステックの第一回コンテストで「ちまちま」を応募。そのあとボーステックの社員となった。さらにこのあと「マクロス」、「ウィザードリィ」のキャラデザを経て、ギャラザデ専門の会社を設立してしまうことになる)。同社はこのあと「パソコン警察ゲームコンテスト」というものを開催。内容は先のアドベンチャーゲームコンテストとまったく同じで、「金庫破り」「大脱走」「マンハッタン・コネクション」のイラストにあうゲームを制作するというものだったが、こちらからは快作は生まれなかった。
コンテストの終焉
1984年も1983年に引き続き、数多くのコンテストが行われた。この年に行われたコンテストとしてはエニックス、ボーステック、ポニー、アスキーなどが主催したものが主なものである。
しかし1984年に入ると、次第にユーザーのゲームを見るレベルが向上し、一般コンテストで募集した作品で最優秀賞を受賞するような作品でも、製品レベルとして見ればやはりプロが制作したものとは開きがでてくるようになったのである。このような状況は各社で見られた。たとえばマイクロキャビンが84年に行ったアドベンチャーゲームコンテストでは、応募作品が200本だったものの、最優秀賞に該当するアドベチンチャースピリッツ賞には該当作品がなく、優秀アドベンチャーゲーム賞(2名)に輝いたのも、只並信孝氏の「ゴーストタウン」ただ一本だけであった。ほんの一年前ならば十分に市場に通じる作品が、84年になるとほとんど商品化は無理という状況は、たった1年のパソコンゲームの進歩を裏付けるものである。そしてやがてアマチュアが制作したゲームが通じなくなった85年になって、隆盛を誇ったコンテストによるゲームの製品化は影を消していくことになる。
参考文献
PCマガジン 1984年12月号 P.64より一部引用
I/Oゲームコンテスト、エニックスコンテスト、マジカルズゥのコンテストの広告 工学社I/Oより引用