シミュレーション/パズルゲーム総括


各ジャンルの切り分け

この総括では、シミュレーションゲームとパズルゲームを1つにまとめている。まずはこれらのゲームの定義を明確に整理したい。

まずシミュレーションゲームだが、これはストラテジーゲームとかウォーゲームとか呼ばれる分野を指す。ストラテジーゲームは、一定のルールのもとで、勝利に近づくためには次に何をするのが最も効果的なのかを選択してゆくゲームで、プレイヤーが行動を選択するまでゲームの進行は止まっており、じっくりと戦略を立てることができる。ロールプレイングゲームやアクションゲームと違い、シミュレーションゲーム(ストラテジーゲーム)の特徴には大局的にゲームを進行させることも挙げられる。眼の前の敵に対しての行動に意識を集中するのではなく、全体の流れ、もしくは最終的な勝利に対して意識を集中するという点である。
日本では「信長の野望」「三国志」、古くは「スタートレック」などがこの分野に当てはまる。また、「チェス」や「将棋」などもこの定義に当てははるが、これらは、「テーブルゲーム」として解釈することにする。また、近未来に起こるかもしれない戦争や航空機の操縦などを擬似的に体験したものもシミュレーションゲームに含まれる。フライトシミュレータや選挙戦、外科手術なども含まれる。

「パズルゲーム」は、理詰めで攻める数理パズル的なものから、論理的思考はさておき限りない思考錯誤とカンで勝負するジグゾーパズルまでさまざまである。前者は相手を想定すれば、オセロやチェスといった論理的なボードゲームへと発展するのだが、これはテーブルゲームに含めることにする。後者のジグソーパズルに代表されるような、いわば時間さえかければゴールにたどり着けるもの、迷路的要素をもったものを含むことにする。



シミュレーションゲームのルーツ

シミュレーションゲームは「スタートレック」以来、着実な進化を遂げて、パソコンゲームの一つの分野として古くから確立していた。ところで、シミュレーションゲームのルーツは何であろうか?

我々が現在目にすることができる最古のシミュレーションゲームといえば、テーブルゲームなのだが「チェス」が挙げられるだろう。その源流を遡れば数千年前にまで遡ることができるという。有史以来、人類は自らの戦いのパターンをゲームの形に昇華させ、シミュレートしつづけてきたと言える。現在コンピュータシミュレーションゲームの主流になっている、網目状のマスの中で駒を移動させるタイプのものは、第二次世界大戦中に、軍事作戦の立案のために行われた「ゲーミング」と称するウォー・シミュレーションにその原型を見ることができる。この軍隊製シミュレーションゲームをベースに、1953年、チャールズ・S・ロバーツという青年が「タクティクス」というボードシミュレーションゲームの名作を創案し、後にアバロンヒル社(ボードタイプ・シミュレーションゲームのメーカー最大手)を設立するに至るのである(写真はボードゲームの名作:タクティクスII)


アバロンヒル社は「米国南米戦争」「タクティクスII」「ワーテルローの戦い」ほか次々と作品を発表し、市場を独壇場にしていった。その後、ボード・シミュレーションゲームの発達には目を見張るものがあり、1969年に設立されたSPI社ほか、群小メーカーに至るまで、次々と新しいゲームを繰り出し、アメリカでシミュレーションゲーム・ブームを巻き起こした。アバロンヒル社とSPI社はそれぞれ「ジェネラル」「ムーブス」というシミュレーション専門誌を刊行し、ゲーマーに対するアフターケアをしていった。そういった配慮により、アメリカにおけるボードシミュレーションゲームは隆盛を見せていった。(写真はワーテルローの戦い)

一方、日本では1970年代にはボードシミュレーションゲームの紹介がなされたが、その難解さから、一部のマニアによってのみ愛好された。




ボードシミュレーションとはどのようなものか?

ボードシミュレーションゲームは、当初は「ウォーゲーム」と呼ばれていたように、あくまで戦争ものが主流を占めているが、そのバリエーションは多岐にわたっている。戦争モノでは、海戦、陸戦、空中戦でそれぞれジャンル分けできる。だが、ジャンルを越えて、ボードシミュレーションゲームは共通の遊び方、ルールがある。というのも、1950年代に発売された「タクティクスⅡ」から他の殆どのボードゲームが発展したからである。「タクティクスII」を中心に、ゲームの基本的なルールを説明してみる。(写真はドニエプルリバーライン付属の駒と地図)


戦争には敵と味方の区別しかないので、2人が自軍と敵軍に分かれて対戦する。ただ、戦略タイプのゲームでは、複数(4人ぐらい)でプレイできるものもある。用具としては、ボード、コマ、戦力表、サイコロがある。ボードが戦場を示すのは分かるだろう。「タクティクスII」ではマス目がスクエアタイプのボードだが、現在はヘックスタイプのものが主流である。一方コマは戦力の最小単位である。ゲームによって、1つのコマが部隊を意味したり、空母や戦車隊になったりする。コマ1つひとつには、それぞれの能力が数値として記されている。将棋のコマなどと違うのは、コマ、つまり武器の状態が被害によって変化する点だ。また、将棋のコマは取るか取られるかだが、ウォーゲームでは、-1の被害とか段階がある。各コマのデータをプレイヤーがいちいち管理しなくてはならず、初心者には難しい点だった。もう1つ将棋などとの違いを挙げると、将棋では対戦者が交互に1つずつのコマを動かす。ウォーゲームでは、コマの移動能力の範囲なら、動かせるコマは何個動かしてもいい。この点でも初心者のとまどう原因になっている。


戦力表は、戦争を数値に置き換えたものである。ある戦争の持つさまざまな要素、たとえば気象状態、軍隊の士気、食料、燃料などをデータ化している。すべてをデータ化することはできないから、何をデータ化するかでおもしろさが左右される。戦力表の中で一番重要なのは、コンバット・リザルト・チャートだろう。戦闘を表現するために使う。自軍のコマと敵軍のコマがボード上で隣り合うと、戦闘が始まる。戦闘の結果をどのように決めるのかというと、ふつう攻撃側の戦闘力と相手の防御力×乱数の比較による。乱数の役目をするのがサイコロだ。乱数はゲームに「不確定要素」つまり戦争につきものの「まさか」を表現するわけだ。戦ったときに常に戦力の勝る方が勝つのはおもしろくない。結果を予測しにくくする機能、ランダマイザーをサイコロが果たすことになる。このようなスタイルでどちらかが勝つまでゲームを進めていく。




コンピュータでのシミュレーション

さて、このようなボードシミュレーションだが、それをパソコンで表現しようという会社が現れた。まずアメリカのオートメーテッド・シミュレーション社が、宇宙戦争をテーマとした「スターフリート・オリオン」を発表した。ただし、このゲームはプレイヤー対コンピュータの対戦形式ではなく、ふたりのプレイヤーの審判機能だけをコンピュータが果たすものだった。その後、同社はこれを発展させ、プレイヤー対コンピュータというスタイルのゲーム「インペーション・オリオン」を発表した。また、1970年後半には、アメリカのパソコン情報誌にも、コンピュータシミュレーションのプログラムが掲載されるようになった。大学の大型コンピュータからパソコンに移植して大ヒットした「スタートレック」も有名である。



スタートレック

スタートレックは、カーク船長乗り組む宇宙船エンタープライズ号の冒険を描いた人気テレビ番組のテレビゲーム版である。一定期間内に決められた数のクリンゴン戦艦を破壊するのが目的で、画面には銀河地図と今いる星域の地図が表示されている。まず敵を探し出すために、ワープエンジンを駆動させて移動する。自分の宇宙船の状態や残り時間は数字で表示されている。フェイザー砲や光り子魚雷を使って敵を倒し、燃料を補給したりダメージを補修しながらゲームを進めていくというものである。
スタートレックは元々アメリカの学生たちが研究室にある大型コンピュータを使って作ったゲームだったが、それがBASIC言語の登場とともに大流行し、自分でいろいろと改良したりして楽しんでいた。スタートレックは高度な戦略を必要とし、それまでのパソコンゲームの概念を変えてしまうほどの面白さをもっていた。



本格的コンピュータウォーシミュレーション

先に述べたシミュレーションボードゲームは、それ自体十分におもしろいゲームなのだが、いくつか問題があった。たとえば、戦闘結果を表すための計算、コマのデータ管理、移動範囲の確認と、ゲームが複雑になればなるほど、面倒な手続きが等比級数並みに増えていった。また、相手に情報が筒抜けのため、奇襲や諜報戦ができなかったことも挙げられる。また、航空機と地上機の連動などが難しかったという事実もある。

1979年、コンピュータシミュレーションゲームの専門会社ストラテジック・シミュレーションズ(SSI)が社が誕生した。設立者はジョエル・ビリングス。彼の創案した「コンピュータ・ビスマルク」(写真)が第1作であった。この作品は完成度ももちろんながら、それまでの「スタートレック」のようなシミュレーションゲームに無いグラフィックの美しさで大ヒットとなった。80年になると、アバロンヒル社もこの分野に進出し、その子会社のアバロンヒル・マイクロコンピュータ社から「B-1戦略爆撃機」「ミッドウェイ海戦」「核戦争」「惑星鉱脈」などのシミュレーションを次々に発表した。これらのプログラムはBASICだけでプログラムされており、定価は15ドル程度と手軽で、パッケージの中にはAppleII、ATARI800、PET2001、TRS-80用のプログラムが収められたカセットテープ一本と簡単な説明書が入っていた。
いずれも初心者向きのレベルで、ルールはやさしいが、コンピュータのグラフィック機能を十分に活用していない。加えて、ゲーム自体の構成も単純で、従来のボードシミュレーションゲームの複雑なゲーム・メカニズムや、こと細かに設定された分厚いルールブックに慣れてきたボード・ゲーム・ファンには、満足のいくものではなかった。

しかし、この後アバロンヒル社からそれらの続編ともいうべき「タンクティクス」「アンドロメダ征服」(写真はPC88版)、「フォートデュファンスの大砲」などが発表され、だんだんゲーム・メカニズムやルールが改善された。その中でも「タンクティクス」は、テープのほかに、ボード型ゲームに見られるような作戦盤と駒が付属していて、画面からの情報でボード上の駒を動かしながらプレーする。これはコンピュータのグラフィック能力の不足を、ボードで補ったものとして注目に値するものだった。



日本でのシミュレーション

一方、日本での動きはどうだろうか? 1970年代にボードシミュレーションゲームの紹介がなされたが、その難解さから、ボードシミュレーションゲームは一部のマニアの間で愛好される程度で、ブームにまで至らなかった。その背景には、いくつかの理由が考えられる。日本語マニュアルの不備、ルールの複雑さ、およびそれに伴う長大なプレイ時間や対戦相手不足、加えて国民性からくる違和感などが主な原因と考えられる。
日本ではほとんどボードシミュレーションゲームの下地がなかったが、1970年代後半から流行した「スタートレック」は、日本の黎明期のパソコンほとんどに移植され、コンピュータならではのそのゲームスタイルに魅了されていった。

1980年代に入ると、ボードシミュレーションからヒントを得た、日本独自のシミュレーションが早くも登場しはじめた。1980年に雑誌アスキーに掲載された「フリートコマンダー」が本格的コンピュータウォーゲームの第1号と言われている。その後、光栄から「川中島の合戦」(写真)「北海道戦争」などが発売。中でも本格的だったのは、システムソフトから発売された「珊瑚海海戦」である。珊瑚海海戦は日本軍が真珠湾攻撃以来初めて阻止された海戦であり、ポート・モレスビー攻略を断念する原因となった戦いをシミュレートしたものだ。このゲームは当時14,800円もする高額ソフトで、さらにフロッピーディスク版のみのリリースだった記憶がある。パッケージは缶ケースで、珊瑚海の(HEX)マップ、駒などが収められていて、その大きさ、重厚さはなかなかのものであった。当時のシミュレーションゲームの多くは、長時間考えた末にオオボケの手を打って来る思考ルーチンが氾濫しており、そんな弱いコンピュータに飽き飽きしていたユーザーたちはこのゲームを大いに評価した。このゲームの作者は、一0(かずとれい)氏という海戦のボードシミュレーションゲームの大ファンだった人で、データの制作に1年以上を費したという。



アバロンヒルの上陸

アバロンヒル社は、先にも述べたように、当時アメリカ最大のボードシミュレーションゲームメーカーであった。ボードゲーム、コンピュータゲームの両方を合わせると、その数は200種類以上(1984年当時)にも及び、特に戦争に題材をとったシミュレーション・ウォーゲームが同社の得意とする部分である。
アバロンヒルのゲームは全世界に輸出され、その熱狂的なファンも世界各地に散らばっている。アバロンヒルのゲームの人気の秘密は、実戦や史実に基づいた状況設定により、ゲームに現実性をもたせ、さらにそこにシミュレーションという知的判断を必要とする要素を加えたことだろう。

そんなアバロンヒルのゲームが1982年に日本に移植されることになった。その移植の橋渡しをしたのは、CSK、木屋通商といったメーカーである。
CSKと木屋通商がアバロンヒルと関係を持ちはじめたのは、1982年のことである。CSKは当時新宿の西口でマイコンショップを営みながら、この事業の拡大に本腰を入れようとしていた。そんな折、木屋通商の酒井社長を介して、アバロンヒル社との提携話が持ち上がり、CSKは渡りに船とばかりにその実現に乗り出すことになったのだ。
1982年当時は、まだ「シミュレーション」という言葉の概念が一般化していなかった。そんな中、CSKは、「ミッドウェイ海戦」「戦艦ビスマルク」といった「スタートレック型」のシミュレーションゲームを発売していった。CSKは「果たして市場に受け入れられるかどうか?」と身を固くして市場の動向を伺っていたが、いざフタを開けてみると、次々と追加注文が入りはじめ、予想以上の売上となったのである。最終的には初期の5本だけで約7万本を出荷した。
この売上が起爆剤となり、パソコンソフトの企画・販売を行う「CSKソフトウェアプロダクツ」という組織が出来上がった。アバロンヒルはこうした意味でCSKソフトウェアプロダクツの生みの親といえるだろう。



アバロンヒルゲームの日本語版の発売にあたって

CSK、木屋通商とアバロンヒルの関係は1984年になっても続き、多くのソフトを日本語化していった。彼らはアバロンヒルのゲームを移植するときに、いくつかの権利が与えられていた。

まず1つがフリーハンド権。フリーハンド権というのは、日本で発売するソフトの画面出力の形を自由に設定できる(もちろんゲームの基本コンセプトは変更できない)ことである。アメリカ版はグラフィックが概して貧弱なので、日本語版ではその点を十分に配慮し、グラフィックの充実に腐心して移植することになった。
2つ目が、アメリカで使用しているパッケージのデザインをそのまま日本語版でも使用するという権利。パッケージデザインに関しては、アメリカの方が1枚も2枚も上手である。その点、大胆な配色をそのまま使用した日本語版のパッケージは、評判にこそならなかったが、一度みると忘れないような独特のセンスを放っていた。
また、日本語版に自由にタイトルをつけることができる権利、どの機種にも移植できる権利など、アバロンヒルはCSK、木屋通商に対して、寛大で暖かい提携を結んでくれたといえるだろう。


CSKは約3ヶ月ごとにまとめて数タイトルを移植するという発売スタイルを保っていた。これはアバロンヒルから数タイトルの移植をまとめて契約し、それを半年間ほどかけてローカライズしていたということだろう。CSKが移植にあたって、最も苦労した点はやはりグラフィックであった。というのも、アメリカのシミュレーションゲーム界では、1983年あたりはまだ文字(テキスト)を主体にゲームを進行する「テキストゲーム」が主流となっていた。日本は、ゲームの内容よりも、グラフィックの美しさによって、そのゲームの出来、不出来が大きく左右してしまう。そこで、日本のユーザーに受け入れられやすくするために、グラフィックに力を入れることになった。また、AppleII版のハイレゾ・グラフィックをどう日本のハードで出力するかという点も頭を悩ませた。さらに洋書の和訳においても常に問題となる、言葉のニュアンスをどううまく表現するかという点も苦労したようだ。(写真は空母機動部隊)



移植の果てに・・

CSKと木屋通商はパソコン黎明期のシミュレーションゲームの発展に最も貢献した企業であろう。その作品は軽く50を軽く超え、日本にほとんどなじみがなかった、ウォーシミュレーションゲームを本場アメリカから移植したからだ。しかし、これらのゲームがシミュレーションの王道を歩むことはなかった。その原因は何だろうか?
アバロンヒルの移植ゲームや他の初期のシミュレーションは、当時のパソコンの容量不足から大きなゲームシステムを作ることが不可能だった。通常のボードゲームが入門用でも60×100マス目に200個ほどのユニットを使用していたのに対し、パソコンゲームは10×10程度の小さなマップに両軍合わせても30個ほどのユニットというのが標準だった。また、当時はカセットテープでゲームが提供されていたため、ゲームの保存ができず、ゲームのプレー時間もおのずと制約されてしまい、1~3時間ほどでゲームが終了できる簡単な内容へとせざるを得なかった。
また、アバロンヒルのゲームのほとんどは、ボードゲームマニアの手によってシナリオが作られていた。このために移植されたゲームは、ボードゲームからの焼きなおしが多く、その上ハードの制約もあってボードゲームの小型版とでも呼ぶべきものが大半を占めた。つまりパソコン版は、ボードゲームの種々のルールのごく一部をコンピュータに置き換えたものでしかなかった。結果として、ボードマニアからは「この程度か」とけなされ、初めて接する人にとっては「何だこれは?」という印象を持たれた。
さらに、コンピュータ側のルーチンが「バカ」なものが多く、その思考を補うためにゲームシステム自体に細工をしたりしていたことも、ゲームバランスを悪くした原因となった。
しかし、アバロンヒルの移植ゲームとは対照的に、ジワジワと売上を伸ばしていったソフトがあった。それは次に述べる「光栄マイコンシステム(現:コーエー)」である。CSKも光栄も、シミュレーションゲームの「戦術」の部分をゲームにしていたが、光栄はその後「信長の野望」で戦術だけではなく戦略(政治的要素も含めた大局的部分)のシミュレーションを導入し、大成功を収めたからである。



信長の野望

日本でシミュレーションゲームとして最初に大ブレイクしたのは、1983年に発売された光栄の「信長の野望」であった。光栄は、それまでも「川中島の合戦」「北海道戦争」「コンバット」などのシミュレーションゲームを、パソコン黎明期から発売している、シミュレーションゲームの老舗であった。

これらのゲームを手掛けていたのは、社長である襟川氏で本人であった。彼はペンネームをシブサワ・コウと名乗り、奇抜なアイデアでいくつもの秀作ソフトを開発していた。信長の野望は、戦国時代の国盗り物語をテーマとしたシミュレーションゲームで、プレイヤーは織田信長もしくは武田信玄となり、ゲームをスタート。国を治め、軍備を増強しながら天下統一を目指すというものである。国内政治の場合は経営シミュレーション、戦闘の場合は戦術シミュレーションと、場面に応じて臨機応変に対応してゆかなければならず、単調な遊びにならないように工夫されていた。また、「自分」というキャラクターに健康・カリスマ・知性・年齢などのデータを持たせ、個性をつけている点もユニークである。これらの値は毎回変動し、ストラテジーゲームでありながら、ロールプレイング的な要素も含んでいる。

このゲームは、それまでのアバロンヒルのゲームにみられるような「ウォーシミュレーションゲーム」の「ウォー」の部分よりも、国内を統治するためのマネージメントのような戦略部分に焦点を当てたことが最大の特徴である。また、戦国時代という日本独特の群雄割拠の時代を題材にしたことにより、シミュレーションゲームを「おもしろそうだけど、なんとなく難しそうなゲーム」と感じていた一般ユーザーにまで浸透することに成功したのである。



光栄の独壇場


「信長の野望」がヒットした後、光栄は信長の野望にプラスアルファの要素を付け加えたゲームを毎年発売し、その地位を築いていった。まず1984年に経営シミュレーションゲームである「トップマネージメント」、そして1985年にモンゴルのジンギス汗をテーマとした「蒼き狼と白き牝鹿」(写真)を発売した。このゲームは、全体が2部構成になっており、第一部はモンゴル平原で14ヶ国の統一、第二部は世界統一で27ヶ国を支配下におくことになる。信長の野望からスケール的にかなりグレードアップしていた。また、自分の能力として、武力、統率力、判断力、企画力などがあり、コマンドを実行するたびに必要な能力が消費され、ゼロになるとコマンドが実行できなくなる。また戦争だけでなく、各地方の特産物があり交易によってお金を得たり、オルドで跡継ぎを作ったりもしなくてはならないという新要素も追加された。蒼き狼と白き牝鹿は当初PC98版で発売された。それはデータ容量の多さと、人名地名に漢字表示を使ったためである。しかし、88に移植された際、漢字表記がすべてカナ文字になったたため、タダでさえ馴染みの無いモンゴル人の名前が、さらに大変読みにくくなってしまった。こうした点で、このゲームは大ヒットには至らなかった。

1985年の冬には、「三国志」(写真)を発売。三国志は人材というシステムにスポットを当て、これがシステムとして大成功した。元々、三国志というのは、実に多くの武将、智将が登場し、話を盛り上げた演義である。これらの人材をいかにうまく集め、使うか、これを実にうまくゲームに昇華したといえる。さらに1986年には「信長の野望・全国版」を発売。シミュレーションゲームとしての地位を不動のものとした。
光栄の一連のシミュレーションゲームを見ていると、明らかに意識して、少しずつ複雑で専門的な戦略を楽しめるように制作してきたように思われる。つまり、ユーザーを光栄が育てていったということである。光栄は3年間もかけてこの地位をじっくりと築き上げていったのだ。



リアルタイムシミュレーションゲームの登場

ちょっと変わったゲームもあった。それまでのシミュレーションは、自分の思考時間は相手は停止するといったターン制のゲームがほとんどだった。ところが、87年に発売されたアートディンクの「A列車で行こう」やブローダーバンドジャパンの「アートオブウォー」(写真)が発売された頃から、リアルタイムシステムのシミュレーションゲームが多く登場しはじめることになる。もともとこの手のゲームが全くなかったわけではない。しかしこの種のゲームが主流になるほどではなかった。「アートオブウォー」で見られる、両軍が同時に移動するリアルタイム性は、ボードゲームシミュレーションの頃からの夢であり、コンピュータの出現によってこの手のゲームが増えていくことは予想できたことではあった。
一方、アメリカではこのころすでにSSI社の「バタリオン・コマンダー」という戦術ゲームや、E・A社の「パットンVSロンメル」といったリアルタイムシミュレーションゲームが続々と登場していた。そういった海外物のリタルタイムシミュレーションの1つがこの「アートオブウォー」だった。



PC9801への移行

1985年に発売されたシステムソフトの「現代大戦略」(リンクは88版の「大戦略88」)(写真)は、最新兵器を操り敵の首都を占領するというゲームで、古くからのボードシミュレーションタイプのゲームである。それ以前のウォーシミュレーションゲームでは、マップが不変であったのに対し、「現代大戦略」ではマップをコンストラクション可能なものと捉え、これまでの概念をくつがえした。これによって定型的なシミュレーションゲームの枠が破られた。しかし、このゲームは複雑な思考ルーチン処理とスピードの関係上、PC-9801用に開発されたゲームで、シミュレーションゲームは、このゲームを境にしてPC9801がメインマシンとなっていくことになった。シミュレーションゲームはコンピュータの思考ルーチンが大切であり、その思考もスピードが伴わなければ、さすがにプレーするのが厳しい。こういった面で、このウォーシミュレーションゲームは残念ながら88では役不足になってしまった。もちろん、光栄は「水滸伝」「大航海時代」「ロイヤルブラッド」など88をプラットフォームにしたゲームをこの後も発売していったが、最初に発売されるマシンがPC9801用になることが多くなり、徐々にこの分野の時代はPC9801に移っていった。
興味がある方は、このあとシミュレーションゲームがどのような経緯を辿っていったか、PC98を中心に調べられてはどうだろうか?



パズルゲームの歴史

パズルというのは、一口でいえば論理の展開を楽しむ娯楽だ。有史以来、パズルという言葉はなくても、我々人間とともに日常の中に存在しつづけてきたであろう、このゲームのおもしろさはズバリ「解く」楽しさだ。
パズルの世界には、年齢、性別、学歴、職業から体力にいたるまでの、実世界に問題になる条件を一切考慮する必要はない。ただ、ひとつの問いかけに対して、全身全霊で挑み、時間を忘れ、夢中になる。パズルは基本的に1人で遊ぶもので、相手はいない。自分の好きなときに挑戦し、征服するという能動的なゲームだ。これが攻撃してくるインベーダー以降のコンピュータゲームと大きく違う点だ。

パズルゲームにはいろいろな種類がある。理詰めで攻める数理パズル的なものから、論理的思考はさておき限りない思考錯誤とカンで勝負するジグソーパズルまで、さまざま。前者は相手を想定すれば、オセロやチェスといった論理的なボードゲームへと発展する。後者は思考錯誤だけでも(論理がなくても)、時間さえかければ確実にゴールにたどり着けるもの、たとえば、ジグソーや迷路といったものがある。
パソコンが普及しはじめた1980年過ぎ、コンピュータを使ったパズルゲームとしては、論理的なものが圧倒的に多かった。たとえば、麻雀、トランプ、オセロが主流といったところだろう。これらのゲームは、従来、人間相手でなくては出来ないものであったが、コンピュータがその代役を務めることにより可能になった産物だ。



コンピュータパズルの衝撃

1983年までのパズルは、現実にあるパズル(迷路、ジグソー、麻雀など)をコンピュータの画面の中に押しこめているだけのものがほとんどだった。それなら結局本物をやればそれに越したことはない。コンピュータがどこまで強くなるかというアルゴリズム的な発展はしていたが。しかし、1983年に登場した「倉庫番(シンキングラビット)」(写真)はコンピュータがあったから生まれたパズルゲーム第1号といってよいだろう。倉庫番の画面はえらく地味だが、「物を押すことはできても引くことはできない」という人間が実際に紙に書くと混乱しそうなルールを画面上で正確に表現した。その後も倉庫番に習えと、各社いろいろ工夫を凝らしたパズルゲームを発売する。「Water Worker(アスキー)」「Breeze(アスキー)」「頭脳4989(エニックス)」「TNT BombBomb(シンキングラビット)」などである。



リアルタイムをプラスしたパズルゲーム

リアルタイムゲームは、ひたすら攻撃してくるコンピュータ相手に戦う「受身的な」ゲームで、じっくりこちらで考えて進めるという発展はしていなかった。これはリアルタイムゲームの源であるアーケードゲームが、お金を入れて得られる限られた時間の中でプレーするものであり、アーケードゲームの経営者はいかにプレー時間を短くして、客の回転をよくするか(お金を入れてもらうか)を考えているので、じっくり考えこむゲームを作ろうなどという発想がでてこないのは当然である。
しかしそんな中でも、敵を戦いながらパズル的要素を楽しむというゲームが登場はじめる。有名なところでは、アップルIIの「マイナー2049er(ビッグファイブ社)」(写真)、アーケードの「Qバート(プレミアテクノロジー社)」などである。

家庭用ゲーム、パソコンゲームは、元々時間の制約がないため、じっくりと考える思考型ゲームが初期から発展してきた。そしてその思考にリアルタイムを絡めた最初の名作といえるのが「ロードランナー(ブローダーバンド社)」(写真)だろう。これこそ、まさにコンピュータでしかできないパズルゲームである。ロードランナーは、金塊を全部集めて、はしごを登ればクリアというゲームだが、この金塊のある場所が実にいやらしくできている。たとえば、穴が一定時間経つと自動的に埋まるというコンピュータならではのルールがあり、これを利用しないと金塊が取れなかったりする。また、敵のアルゴリズムにも規則性があり、敵を利用して金塊をとったり、うまく誘導したりというキーボードテクニックも重要になる。この2つの要素が非常にうまく絡んだゲームだったのだ。また、ロードランナーには自分で面が作れるというコンストラクション機能もあり、これが大ヒットした理由の1つでもあろう。このゲームこそ、真にコンピュータを使わないと絶対にできない究極のコンピュータパズルゲームだったのではないだろうか。



ポスト「倉庫番」

1983年は、パズルゲームにとって革命的な年であった。いままで実際にあるものをコンピュータに移植したにすぎないような「15パズル」系のゲームがメインだった世界に、コンピュータでしか実現できないようなパズルゲームが登場したのだ。「倉庫番」「ロードランナー」がその先駆者であった。ところが、1984年は残念なことに「倉庫番」と「ロードランナー」の影響を色濃く受けた、バリエーション版のゲームがほとんどであり、新たな息吹は感じられなかった。この年に登場したパズルゲームは、ロードランナーのコピーの「ファンキーモンキー」、タカラの「ホリデーパズル」、シンキングラビットの「T.N.T. BombBomb」などで、いまいちパッとしたものがない。ただ、アイデア的には面白いものも登場している。倉庫番でいう荷物ではなく壁をスライドさせてボールを出口まで導く「ストンボール」、一筆書きの要領で、ちらばっているキノコをたべる「はらぺこパックン」、切れている水道管をつないでシャワーを浴びる「WaterWorker」、ロードランナーよりもリアルタイム要素が強い「フラッピー」などであった。



パズルゲームの減少

1985年には、ゲームアーツから「キュービーパニック」(写真)、アスキーから「ザ・キャッスル」とリアルタイム性を絡めたパズルゲームが登場した。特に「キュービーパニック」はPC8801mkIISRのパワーを存分に活かし、移動するキューブの中を縫うように走り抜けるという、リアルタイム迷路ゲームといった全く新しいタイプのゲームだった。しかし、パズルゲームの発展は、これ以降残念ながらあまり見られなかった。多くのパズルゲームは、エッチゲームと結びつくことが多くなった。たとえば、裸の女の子の写真や絵をパズルで完成させるとか、そういった安直な発想のゲームに、パズルの要素は使われていった。時代はロールプレイングゲームがメインとなり、昔ながらの限りない時間を使った単純な思考であるパズルゲームは、あまりユーザーの興味をひかなくなっていったのである(ただし、後年「テトリス」「上海」といったルールは単純だが奥の深いパズルゲームがヒットしているのも記しておく)。

参考文献

PCマガジン84年3月号から一部引用
PCマガジン83年 より一部引用
Oh!PC 84年4月号 P.82から一部引用
コンプティーク 89年10月P.72
ポプコム 85年2月号から一部引用
電子遊戯大全 020 169 116より引用
ログイン83年11月号P.61より一部引用
辰巳出版シミュレーションゲーム最前線2 P.10より一部引用
画像 ボードゲームの画像 コンピュータビスマルク 電視遊戯大全より引用
画像 ボードゲームの画像 シミュレーションゲーム最前線2より引用
木屋通商とアバロンヒルの新聞 CSKのコンピュータソフト紹介より引用
襟川社長の写真 ポプコム87年1月号から引用