アドベンチャーゲーム総括
アドベチンャーゲームの出現
アドベンチャーゲームは、アーケードゲームには無かった新たなテレビゲームの分野であった。1982年まではパソコンゲームはリアルタイムゲームが全盛で、ホビーユーザーたちも、パソコンをアーケードゲームを家でプレーするための代替品とみなしていた部分も多かったのではないだろうか。この時代はパソコンゲームにとって、不遇の時代でもあった。ウン十万もするパソコンの上で動くゲームが、たった100円を投下するマシンで動くゲームにまったく及ばなかったのだ。
1983年に「ドアドア」が発売され、PC8801をメインとしたパソコンゲームブームが始まった。PC8801がメインマシンになったことにより、美しいグラフィックが表示できるようになった。そしてそのグラフィックを有効に使った新たなるジャンルのゲームが登場したのである。それがアドベンチャーゲームである。1983年あたりから、徐々にマニアの間に広まり、1985年まで、リアルタイムゲームを押しのけて、一大ブームと呼べるほどに広まっていったのである。
アドベチャーゲームの起源~ウィリアム・クローサー
そもそもアドベンチャーゲームの起源はどこにあるのだろうか?
アドベンチャーゲームは、当時高価で数も少なかった大型コンピュータに触れることのできた学者、研究者の間の遊びとして作られた。
1972年、ウィリウム・クローサー(写真)は、妻のパットとともにボストンのBBNでアセンブラプログラマーとして働いていた。ウィリアム一家は、余暇を利用してケンタッキー州にある洞窟を探検をしたり、洞窟の一部を地図に書いてたりしていた。また、ウィリウムは、D&Dというテーブルトークロールプレイングゲームにも熱中していたという。
しかし、楽しい時は長くは続かず、ウィリアムは妻との別居生活を余儀なくされる。2人の子供は妻に引き取られたため、彼は孤独な生活をすることになる。そしてそのショックからか、好きな洞窟探検も止めてしまった。自分の子供たちともう一度暮らしたい、そんな気持ちからか、彼は子供たちが楽しめるような、いままで自分が探検した洞窟をシミュレーションしたゲームをコンピュータ上で作り始めた。もちろん、彼がプレーしていたD&Dの要素を入れながらである。
彼はDECのPDP-10というコンピュータ用にFORTRANでプログラムを組み始めた。洞窟の特徴や地図はすべて、彼が探検してきた実際のものを基にし、洞窟の中で宝を探し求めるというものを作った。これをウィリアムの子供に見せると、とても喜んでプレーしたという。このプログラムは、一部のネットワークを通して各地へ流れていった。これがアドベンチャーゲームの原型になったと言われている。
「アドベンチャー」という名のアドベンチャーゲーム
1976年、スタンフォード大学の人工知能研究室に所属するドナルド・ウッズ(写真)は、大学のコンピュータにクローサーのコピープログラムを発見した。そのプログラムを見たウッズは、さっそく彼にメールを送り、いろいろと情報交換をはじめる。彼はクローサーからプログラム改造の承認を取り、大きな改造をはじめた。このとき、研究室内で、J.R.R.トールキンの「指輪物語」が流行っており、彼はここからトロールやエルフといったファンタジックな要素を付け足していった。こうしてできあがったゲームが、アドベンチャーゲームの名の由来ともなった「アドベンチャー」である。このゲームは、広大な洞窟の中を冒険し、神話に登場するような様々な怪物を倒しながら、その洞窟全体を覆う不思議な魔術の秘密を解き明かしていくというものである。
このゲームを開始すると「Welcome to ADVENTURE!」と表示され、「あなたは、道の突き当たりの小さなレンガ造りの家の前にいる。まわりは森である。家から流れ出た小川は、溝へと続いている(原文英語)」と表示される。そこでプレイヤーは、自分の行動を決定していく。「西へ行く(GO WEST)」と入力すると、コンピュータは次の答えを返してくる・・というものである(テキストアドベンチャーの原型)。
この知的で冒険心をくすぐる新たなゲームは、多くの人を虜にした。そしてこのゲームを、1976年にジム・ギログリーがクロウサーとウッズの承認を得て、UNIX用のC言語プログラムに移植した。彼は後にIBM-PC用パーソナルコンピュータ用にこのゲームを移植した。それは「The Original Adventure」と称してMindScape社から1981年に発売された。また、1979年にマイクロソフトは「アドベンチャー」と全く同じ内容が楽しめる「マイクロソフトアドベンチャー」(写真)を発売し、これが米国のアドベンチャーゲームブームの火付け役となっている。
スコットアダムスのテキストアドベンチャー
1978年、クローサーとウッズの「アドベンチャー」をプレーし、そのコンセプトに魅了させたスコット・アダムスは、自分がもっていたパソコン「TRS-80」用でプレイできる「アドベンチャーランド」を制作した。そしてアドベンチャーインターナショナル(AI社)を設立し、初のパソコンのアドベンチャーゲームを市販する。この後、彼は12ものアドベンチャーゲームを作り、パソコンアドベンチャーの金字塔として不滅の名を残している。アダムスのアドベンチャーの特徴は、「アドベンチャー」が洞窟の中を歩き回って宝物を集めるという、迷路主体型のものであったのに対し、ある命令を遂行するという、アドベンチャーに明確な目的をもたせたことにある。たとえば「インポッシブルミッション」では、原子炉を破壊しようとする敵をみつけ、それを阻止することが目的である。このような方向付けは、後のアドベンチャーゲームに大きな影響を与えることになる。
日本でも1984年にスコット・アダムスのゲームが、スタークラフトから移植されているので、名前をご存知の方も多いかもしれない。1978年当時に発売された「アドベンチャーランド」(リンク先は移植されたもの)は、テキストアドベンチャーであり、後にこの内容を基にグラフィックを付けたものが、日本にも移植された「S.A.G.Aシリーズ(Scott Adams Graphic Adventuresの略)」である。
アメリカでのテキストアドベンチャーゲームの隆盛
1976年、人工知能の研究などをしていたアメリカのマサチューセッツ工科大学のマーク・ブランクとデイブ・レブリンが大型コンピュータで「ZORK(以下ゾークと表記)」(写真はPC98版パッケージ)を制作した。ゾークはもともとLispの派生言語であるMDL(マッドル)で書かれていた。それを能率のよい特殊な機械語に翻訳したのがジョエル・ベレスやデーブ・レベリングらで、はじめにパーソナル・ソフトウェア社から発売されていた。その後1979年にジョエルらがインフォコム社を設立して、同社から発売した。ゾークは、前述の「アドベンチャー」の影響を強く受けており、たとえば、ゲームの出だしが「アドベンチャー」と同じだということからも感じ取れる。
ゾークは、ファンタジーの世界観をベースに、怪物達が住む地下の巨大迷宮へと進入し、隠されている宝物を集めるのが目的のゲームである。出だしはこんな感じである「あなたは今、古びた白い家の西側に立っている。周囲は森に囲まれ、小鳥のさえずりが響いてくる。家の中に入ると剣とランプがあり、床の隠し扉を開けると階段が暗闇の中に消えている。恐怖を振り絞って地下へと降りていくと、バタン。先ほどのドアが閉まっている。どうやら閉じ込められてしまったようだ。明かりを灯し、ふと気がつくと剣が青白い光を放っている。恐る恐る隣の部屋へ足を踏み入れた途端、血まみれの斧を振りかざした大男がこちらに向かって・・」。
原文はすべて英語によるメッセージで表示される。ゾークは上記の文章からもわかるように、テキストだけでイメージを思い浮かべるのに十分なほどの情景描写が、ズラズラと画面上に展開する。さらに100エリアを超える広大な迷路と複雑にしかけられた罠と謎は地図無しには攻略は難しい。また、謎解きもアッと驚くものが多い。たとえば、ダムのコントロールパネルをうまく操作すればゲートが開き、貯水池を歩いて渡ることができる。また「死者の国」への門をくぐるには悪霊退散の儀式を行う必要がある。
ゾークのコマンド入力は、接続詞、前置詞、形容詞、間接目的語など、日常的な英語による命令も受け入れる、柔軟なシステムになっている。たとえば、「What is treasure?」「Take all but knife and sword」なんて打てるし、入力も2行まで可能、さらにきちんとした英語で入力しないと、「はずかしくないのか?」などと返答してくる。また、全然ゲームに関係ない「Hello」なんて打てば、「Good day」なんて返ってくる。これは日常会話を判断できる様に作られたからであろう。人工知能の研究がゲームに生かされたのである。
ゾークは、7年間ベストセラーの大ヒットとなり、続編の「ゾークII」「ゾークIII」を合わせて100万本は売れたという。インフォコム社は他にも探偵となって殺人事件を解決してゆく推理小説風のゲームの「デッドライン」、「ウィットネス」、「サスペクト」などを制作し、それぞれヒットを飛ばした。
グラフィックアドベンチャーの登場
ゾークなどのテキストアドベンチャーゲームが盛り上がる中、1980年に初のグラフィック(絵)付きのアドベンチャーと言われている「ミステリーハウス」(写真はアップル版)が登場した。小さい頃から空想が好きで、一人で物語を作るのが好きだったロバータ・ウィリウムズは、夫のケンが使っていたコンピュータ端末で走る「アドベンチャー」をプレイし、このゲームに夢中になってしまった。そして自分でアドベンチャーゲームのシナリオを作り上げてしまう。これはアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」を題材としたものだ。それを見たケンは、そのシナリオを使って、仕事そっちのけでアップルII用のアドベンチャーゲームを制作。これが「ミステリーハウス」である。当初、ケン夫妻はマイコンショップなどを通じてこのゲームを販売していたが、マージンを取られるのを嫌い、「ミステリーハウス」で儲けた資金を基にオンライン社を1980年5月に設立するにまで至る。「ミステリーハウス」は、テキストだけでなく、その場面場面に合わせた絵を表示することにより、プレイヤーにより具体的なイメージを与え、いままで「電子小説」であったアドベンチャーゲームに、「電子紙芝居」ともいうべき新たなる分野を開拓したのである。
※余談だが、絵付きのアドベンチャーゲームを当時「ハイレゾ(Hi-res)アドベンチャー」と呼んでいた。これは、「ミステリーハウス」のパッケージに「HI-RES ADVENTURE #1」と書かれていたことが起源ではないかと思われる。これは、オンライン社が、これまでの「ゾーク」などの文字しか持たないものとは異なり、「グラフィックがついている(高解像だよ)」ということを端的に表現した言葉であろう。
「ミステリーハウス」の成功の後、オンライン社(写真)は次々にヒットゲームを発売する。「ウィザード&ザ・プリンセス」、「クランストンマナー」などだ。ケンはプログラマーの腕だけではなく、商売の方も手腕があったらしく、売上を大幅に伸ばし、スタッフを増強、1982年の6月には社名を「シェラ・オンライン」に変更し、従業員も100人を超える大所帯へと大成長していった。
日本にもアドベンチャーゲームが登場
1982年4月に、日本で初めてアドベンチャーゲームが登場した。月刊アスキーのパロディ版「Ah!SKI」という雑誌に掲載された「表参道アドベンチャー」である。このゲームの内容は、表参道にあるアスキー社のビルに忍び込んで、秘密書類を盗み出すという、オール英語のテキストアドベンチャーゲームであった。
その3ヶ月後の1982年7月には、早くもグラフィックをもったアドベンチャーゲームが、マイクロキャビンから発売された。その名は「ミステリーハウス」。名前はシェラ・オンライン社のものと同名であるが、内容は全くの別物、日本オリジナルである。おそらく当時アップルIIで有名であったシェラの「ミステリーハウス」を意識したものだろう。ミステリーハウスは、シャープのMZ用にはじめ制作され、シャープ系のテレビ番組「パソコンサンデー」で取り上げられた。「アドベンチャーゲーム」という名が日本人の間でも徐々にではあるが浸透しはじめたのである。
日本でテキストアドベンチャーが流行らなかった理由
日本では、テキストアドベンチャーが登場後、すぐにグラフィックアドベンチャーが登場したために、初めてプレーしたアドベンチャーゲームが、グラフィック付きだったという人がほとんどではないだろうか。日本にはテキストアドベンチャーの時代というのはほとんどなかったと言える。「アドベンチャーゲームとは画面に表示される"絵"を見ながら、その場面に適した言葉を推理していくゲーム」というイメージが先に定着してしまったのである。実際、このあと、日本では市販のテキストアドベンチャーというのは、それほど登場していない。そこそこ有名なテキストアドベンチャーゲームとしては、「南青山アドベンチャー(アスキー)」、「幽霊船(新紀元社)」(写真)、「聖なる剣(クリスタルソフト」、「スターライトアドベンチャー(キャリーラボ)」、「不思議の国のアリス(マイクロキャビン)」ぐらいであろうか。
日本のテキストアドベンチャーゲームは、アメリカの大流行したインフォコムのゾークなどのシリーズに比べ、創造力をかきたてる要素に欠けていた。インフォコムの会社の広告文に「We unleash the world's most powerful graphic technology. - 世界で最も優れたグラフィック技術を披露しましょう (そしてそのコピーの下には人間の脳細胞がレインボーカラーに輝いている)」というものがある(写真)。どんなに美しい画面を作ってもそれはただの点の集合体。そんな既成のイメージを押し付けられるよりは、人間が本来持つ想像力をフルに使った方がどんなに広がりがあるだろうか・・・と。インフォコムは、グラフィックを完全に捨て去ることにより、しっかりとしたシナリオ、構想、工夫しつくされたトラップ、謎解きなどに重点を置くことができた。さらに、想像力をかきたてるようなマニュアル類、付録などが充実している。その点、日本のテキストアドベンチャーゲームは貧弱であった。
また、インフォコムのゲームは、会話も小説のような文章表現であり、単に場面を説明する文章とは違っていた。さらにプレイヤーが入力する文章に対しても高度な解析機能をもっていた。これは日本語と英語の違いも大きく影響している。この時期の日本のパソコンにはまだ漢字ROMが標準でついていなかったため、「漢字かな混じり文」での表示が難しく、すべて「カナ」文字表現であった。ディスプレイいっぱいに、カタカナで文章が表示されたら、さすがに読む気が起きないだろう。もし、漢字表記がこの時代に可能だったならば、テキストアドベンチャーというジャンルももしかすると確立されたかもしれない。そういう意味では、たった26文字ですべてを表現できる英語は、テキストアドベンチャーゲームを表現する上では環境が整っていたと言える。
アドベンチャーゲームのブーム到来
1983年に入り、シェラ・オンライン社の「ミステリーハウス」や「ウィザード&ザ・プリンセス」(写真)をスタークラフトが日本語に移植した。いままで噂にしか聞いたことがないこれらのゲームに、日本のファンは期待したが、定価が1万円以上でさらにディスク版のみの発売だった。当時ディスクドライブが非常に高価であったために、プレーできる層は限られた。また、移植の出来(特に描画スピード)もけっして満足のできるものとは言い難かった。
そんな高嶺の花のゲームをよそに、さまざまなソフトハウスがアドベンチャーゲームとは言い難いような、安価で安直なゲームを発売していった。中でもポニーキャニオン(ソフトブランドネームは「ポニカ」)は、自社の立場を利用して、映画やテレビとタイアップした魅力的なタイトルを数多く発売した。「幻魔大戦」、「ハッピーブッシュマン」(写真)はポニカから発売されたものだ。また、エニックスから発売された「星子のアドベンチャー」というアドベンチャーゲームとは思えないものもあった。これらのゲームは、シナリオなどほとんどなく、アドベンチャーゲーム特有の場面のつながりを無視している。また、各場面でクイズやある選択が提示され、それを"Yes/No"で答えて先に進んだり、いきなり数当てゲームが始まって、クリアすると次の場面に進んだりと、アドベンチャーゲームの特徴である能動的な行動をまるで行うことができなかった。
たしかにこの時代、アドベンチャーゲームに対する正確な情報というものが不足していたのはしかたがないと思う。しかし、乱数が混じっていたり、「はい/いいえ」の選択で失敗しただけでゲームオーバーになったりするものが本当に多かったことは、しばらく日本のアドベンチャーゲームを混乱させたことは確かである。
そんな中、本場シェラ・オンライン社のアドベンチャーゲームに近いものも、いくつか登場しはじめた。最初に登場したのはPC88用ではなくてFM-7/8用のゲームなのだが、「ザ・パームス」、「ザ・ナイトオブワンダーランド(ハミングバードソフト)」であろう。続いて夢の中を冒険する「ドリームランド(マイクロキャビン)」(写真)、刑事物の「ポートピア連続殺人事件(エニックス)」、本格的な推理アドベンチャーである「鍵穴殺人事件(シンキングラビット)」、アニメタッチの絵で話題なった「惑星メフィウス(T&E SOFT)」、パロディーアドベンチャーとして有名になった「デゼニランド(ハドソン)」などが登場した。これらのゲームの登場により、日本のアドベンチャーゲームは徐々に盛りあがりを見せた。
アドベンチャーゲーム全盛へ
1984年はアドベンチャーゲームが大ブームとなり、実に多くのソフトが登場した。特徴的なのは、ハドソン、デービーソフト、T&E SOFTといったアクションゲームの分野で活躍していたメーカーも大挙参入したことである。しかし時代の牽引車は相変わらずアップルのアドベンチャーゲームという感は強い。スタークラフトは、1983年に「ウィザード&ザ・プリンセス」を発売以来、1984年に入ってからは月に1本というハイペースでアップルのアドベンチャーゲームを提供し続けた。ちなみに「ウィザード&ザ・プリンセス」の売上は6,000本、その他のアドベンチャーはコンスタントに3,000本ほど出荷したようである。この当時、スタークラフトのアドベンチャーの定価が12,000円以上もしたことを考えると、かなりよく売れたといえるだろう。
これに対して国産のアドベンチャーゲームは、アップルのアドベンチャーゲームに優るとも劣らない作品が、いくつか登場した。当時アップルのアドベンチャーゲームの最高峰と言われた「タイムゾーン」をヒントに作られたと思われるボンドソフトの「タイムシークレット」(写真)、国産アドベンチャゲームの老舗であるハミングバードソフトからは「ABYSS」、「地獄の練習問題」などが発売された。また、国産独特の雰囲気を持ったものも多く発売された。ハドソンソフトは、もっと気軽にアドベンチャーゲームを楽しもうというコンセプトから、「デゼニランド」、「サラダの国のトマト姫」という快作を生み出した。当時ソフト開発に着手し始めたばかりのスクウェアからは、大変硬派なアドベンチャーゲームで話題になった「ザ・デストラップ」が、エニックスは画面の美しさにこだわった「ザース」が発売された。また、技術的な革新もあった。それまでラインとペイントで描いていた画面をたった2秒ほどで瞬間的に表示する、日本ファルコムの「デーモンズリング」、システムソフトの「ミコとアケミのジャングルアドベンチャー」などである。
しかし、相変わらず「これがアドベンチャーゲームか?」と疑いたくなるような品質の悪いものもあり、ユーザーの見る目が必要になってきたのである。
言葉当てゲームのおもしろさ
この時代のアドベンチャーゲームはよく「コマンド入力型アドベンチャー」「言葉当てアドベンチャー」と言われる。これは、ある場面に対して、キーボードから「ヘヤ ミル」とか「ツクエ エゴカス」などのコマンド(命令)を入力して、場面を能動的に進めていくからである。これに対してある場面で実行できる選択肢が画面内に表示され、それを選択しながら進めていくアドベンチャーゲームを「コマンド選択式アドベンチャー」などと呼ぶ。家庭用ゲームマシン(主にファミコンなど)ではキーボードがないため、この方式が用いられ、現在ほとんどのゲームがこの方式である。
インフォコムのテキストアドベンチャーゲームや、シェラ・オンライン社の「ミステリーハウス」に代表されるシリーズは、すべてコマンド入力型で1987年あたりまでこの方式のものが見られた。コマンド入力型は、自分の思った言葉を「動詞」+「名詞」の形で入力するもので、一見すると非常に自由度が高く感じられ、理想のゲーム形態に思われる。しかし、自由度の高さを得るには、入力された言葉に対する柔軟なな文法解析と、メッセージを収めるためのメモリが必要であった。インフォコムのテキストアドベンチャーの場合、絵がない分、メッセージや文法解析にメモリを割くことができ、柔軟な応答をすることができた。さらに英語は日本語よりも「動詞」+「名詞」の表現が単純で、解析もしやすかった。
しかし日本のアドベンチャーゲームは、当初から絵付きのアドベンチャーゲームが主流となったため、絵の枚数や美しさを広告で競う傾向が強かった。例えば、当時の広告には「グラフィック画面○○枚」という言葉がつきものだった。そしてそれがユーザーの評価基準の対象にもなっていた。そのため日本のアドベンチャーゲームは、コマンドに対する応答にいい加減なものが多く見られ、ユーザーもそれがごく当たり前のように感じるようになっていった。
コマンドに対する応答がいい加減だと、何を入力しても「デキマセン」「・・トイウコトバハツカエマセン」といった味気ないものばかりがコンピュータから返ってくるようになる。その場面で入力してなにか違った反応があるのは、せいぜい1個か2個のコマンドだけだ。つまり、自由度があるはずのコマンド入力型ゲームが、実際は何を入れても「デキマセン」しか応答がなく、結局ただ1つの正解のコマンドを当てるという、立ちの悪いクイズゲームのようになってしまったのである。初期のアドベンチャーゲームが、「言葉探し」「言葉当て」と言われる由縁がここにある。
これは何も日本のアドベンチャーゲームだけがそうだったのはではない。実はお手本となるべき、シェラ・オンライン社のアドベンチャーゲームもこのような傾向が強く、同罪である。シェラ・オンライン社のゲーム、たとえば大ヒットした「ウィザード&ザ・プリンセス」は、美しいグラフィックとファンタジックな演出を絵で表現し、それで大ヒットになった。しかし、グラフィックに多くのメモリを使ってしまった分、情景に対する描写やコマンドに対する応答が貧弱になってしまった。
しかし、これらの言葉探しゲームがおもしろくなかったわけではない。いや、実際とても楽しかった。言葉探しアドベンチャーは「思考錯誤型パズル」に近い。ジグゾーパズルや、知恵の輪のようなものと言えばよいだろうか。これらのパズルは、相手から攻撃してくることはない。好きなときにプレーし、思考錯誤を繰り返しながら解いていく。そして解けないものに対する限りなき挑戦、ついつい時間を忘れてしまい夢中になる楽しさ、これが初期の言葉探しゲームの楽しさに共通する部分ではないだろうか。さらに、コンピュータを使って「言葉」を入力するというタイプのゲームは、いままで誰も経験したことがないものである。こんな初物の楽しさもあって、爆発的なブームを呼んだのだろう。
筆者が考えるに、初期の言葉当てアドベンチャーゲームの出来、不出来を考える1つの基準として、「トリックの出来」があると思う。ある場面でどのような行動をとるかを、言葉で入力することは全てのゲームで同じであるが、その謎の仕掛けが問題である。たとえば、有名な場面で「デゼニランド」の棺桶の場面で、十字架をはめる場面がある。プレイヤーは棺桶に十字架の模様があるのを見て、即座にそこに十字架をはめればよいということには気がつく。しかし、その言葉がなかなか見つからない。通常なら「PUT」「INSERT」などでOKそうであるが、答えは「ATTACH」のみ。この場面はアドベンチャーゲームで最も下手な難易度の上げ方の代表だといえる。この場面は当時アドベンチャーゲームをプレーしていた人ならば、誰でも知っているぐらい有名な場面になってしまい、しかもこのような不条理な謎を解くことが、プレーヤーとして一流であるかのような錯覚さえ起こさせてしまった。
しかし、こんな不条理なものが、いつまでも人気が出るはずがない。1984年から徐々に広まったロールプレイングゲームにより、アドベンチャーゲームが衰退してしまったのも、これが原因のひとつだろう。
筆者が考えるに、秀作だったアドベンチャーゲームというのは、アドベンチャーゲームにつきものの不条理さをプレイヤーに感じさせないものである。またトリックも言葉が難しいといった類のものではなく、その状況下で自分がどのような行動をとるかという「機転」によって進めていくタイプのものであると思う。決して言葉で悩ましてはいけないと思う。このタイプのゲームでよくできているものは、スタークラフトが移植した「ミステリーハウス」、「トランシルバニア」、ボンドソフトの「タイムシークレット」などが代表だろう。実は前述した「デゼニランド」も、棺桶の場面以外はパロディものとしてみればかなり出来はよかったと記憶している。
プラスアルファの考察
1984年以前に発売されたアドベンチャーゲームは、そのほとんどが「ミステリーハウス」を原点とした「言葉探し」タイプのものであった。内容がファンタジーであろうが、推理物であろうが、SF物であろうが、これらは枝葉末節のことであり、結局は「ミステリーハウス」の域からは脱っしていないものばかりであった。裏を返せば、「ミステリーハウス」の時点で言葉探しアドベンチャーゲームの基本はできあがっていたのである。
しかし、その中で新しいものを創ろうという試みが見られ、これは後のアドベンチャー崩壊の危機を救うヒントへとつながっていく。たとえば、「ポートピア連続殺人事件(エニックス)」(写真)。従来の場所の移動が「ニシ」「ヒガシ」というマス単位であったのに対し、その経過を廃止して必要な地域だけに移動できるシステムを作りだした。「ミコとアケミのジャングルアドベンチャー(システムソフト)」、「オホーツクに消ゆ(ログインソフト)」。コマンド入力式を廃し、コマンドを選択することでゲームを進めていくというものである。「ザース(エニックス)」。お世辞にもうまいとは言えなかったアドベンチャーゲームの絵に、日本得意の「アニメ絵」を取り入れたゲームである。
アドベンチャーゲームの衰退
1985年に入ると、アドベンチャーゲームはロールプレイングゲームの隆盛に伴い、一気に衰退の一途をたどっていく。
最大の原因は言葉探しタイプのアドベンチャーが飽きられたことだろう。アドベンチャーゲームのスタイルは、1982年に初めて登場した「ミステリーハウス」から基本的には何も変わっていない。とりあえずゲームの最終目的があり、それに対する貧弱なシナリオがある。さらに場面場面に合わせた少量の説明と、それを補うための美しいグラフィック。そして「ミル」「トル」の言葉探し。さすがに飽きる。
アドベンチャーゲームは真の意味での「アドベンチャー」ではなかった。アドベンチャーとは辞書で引くと「冒険」とある。プレイヤーは画面の中で冒険をしているのではなく、「言葉を当てる」パズルゲームをしていただけだ。インフォコムのテキストアドベンチャーゲームが「電子小説」だったのに対し、グラフィックアドベンチャーは、「電子紙芝居」「電子絵本」である。「小説」と「絵本」。どちらが想像力を膨らませるだろうか。グラフィックアドベンチャーが「電子小説」を超えるには、あまりにシナリオや表現、演出が乏しすぎた。
しかし、1985年以降、「電子小説」以上の「電子映画」に近づくためにさまざまな試みがされていく。
※しかし、「言葉探し」のアドベンチャーを否定する気は毛頭ない。人類が誕生して以来、このようなタイプのゲームが流行したのは先にも後にもたったこの数年間しかないだろう。これらのゲームをプレーした人たちは、その希少さを幸運に思わなくてはならないと思う。このようなタイプのゲームが流行った理由は、初物のおもしろさである。パソコンの画面に表示される無味乾燥なグラフィック。不思議な世界。自由になんでもできるといいながら、実際は「デキマセン」しかでない冷たい応答。しかし我々は「アドベンチャーゲームはそういうものだ」と信じ、おかしいと感じてプレーしていたわけではなかった。たった一つの解答を必死に探し、解けたことを自慢するこの種のゲームは、当時「パソコン」という、一部のマニアにしかプレーできないという「妙な」優越感に浸った人たちの娯楽だったのかもしれない。
思考錯誤の時代
1985年から1986年にかけて、従来の言葉探しアドベンチャーゲームになにかをプラスして新しいものを生み出そうとした思考錯誤がいろいろと見られた。
1つはスクウェアの「Will」、「アルファ」といったアニメ+動画路線のアドベンチャーゲームである。このゲームは、パソコンが単なる「絵本」ではなくて動画を使うことによって「映画」(というとかなり大袈裟だが)にまでなりえる可能性を示した。しかし、もう一つの副作用をもたらしてしまう。「かわいい女の子」が主人公ならばヒットするという、出来の悪いエッチゲームの登場を促してしまうことになった。
もう1つは、ゲームを解くことを目的とするのではなく、ゲームを解くまでの経過をいかにプレイヤーに楽しんでもらえるか?ということをテーマとしたアドベンチャーゲームである。例えば、エニックスの「軽井沢誘拐案内」、日本ファルコムの「太陽の神殿」である。コマンド選択式の難点(適当に選んでいれば、いつか必ず解けてしまう)を、その秀逸なストーリーとアイデアで、十分すぎるほど埋めてしまった。リバーヒルソフトの「殺人倶楽部」も同様のコンセプトであるが、非常に緻密な設定により、現実に近い世界を構築して大ヒットになった。J.Bハロルドシリーズは、「殺人倶楽部」で大ヒットし、「マンハッタンレクイエム」、「殺意の接吻」、「DC CONNECTION」とシリーズ化していった。
誰でも解けるゲームへの進展
1985年から1986年にかけて、コマンド入力式とコマンド選択式の思考錯誤が続き、アドベンチャーゲームに動画を入れたり、かわいい女の子を入れてみたり(?)、といろいろな試みが行われた。そして1つの解答となるようなゲームが、1987年に登場した。エニックスの「ジーザス」である。「ジーザス」(写真)は、プレイヤーが必ず最後まで行けるような配慮をとったゲームである。これまでのアドベンチャーゲームは、そう簡単にゲームが解けないように、随所にトリックを仕掛けたりして、不条理な謎を作り出していた。言葉探しタイプのアドベンチャーゲームの時代にはこれは当たり前のことであった。というのも、シナリオが脆弱なアドベンチャーゲームにとっては、この言葉の難易度のみがプレイヤーとゲームをつなげる接点であったからだ。
しかし、ジーザスはその接点を全く違うところに置いた。プレイヤーがゲームを進めながら、そのストーリーに共感し、感動してほしいという、映画のようなコンセプトの基に作られたのである。
「ジーザス」はプレイヤーに映画のような物語にじっくりと浸かってもらうために、コマンドを入力式から選択式にして、言葉探しの煩わしさを廃止した。また、コマンド選択式の難点である「適当に押しているといつか解ける」というものを解消するため、随所にフラグを設け、きちんと物語に没頭していかないと、スムーズに解けないようになっている。また、途中で簡単なパズルや、謎解き、楽器を弾くなどといった要素を散りばめ、単なるコマンド選択から脱却しようとしている面も見られた。
そして「ジーザス」で最も練られているのがシナリオと演出である。シナリオはプロのパズル作家の雅孝司氏を起用。シナリオの原稿は400字詰めの原稿用紙300枚分ぐらい(文庫本1冊以上)は書いたという。いままでのゲームに見られなかったような細かい伏線が随所に散りばめられ、それを効果的な音楽やアニメーション処理で演出したのである。「ジーザス」のシナリオはけっして独創的なものではない。モンスター対人間というありふれたテーマで、これが映画ならば陳腐になっただろう。しかし、これをゲームとして、プレーヤー主体に(能動的に)見せるというものは、それまでのいかなる媒体にもなかったものだったと思う。映画のように2時間ですべてが終わるのではない。あくまでプレーヤーの気分次第でストーリーは進行していくのである。
「ジーザス」のヒットは、他のソフトメーカーにも刺激を与えた。アドベンチャーゲームがプレーヤーを悩ませるものでなく、いかにシナリオを楽しんでもらうかという方向へ進化を遂げていったのである。
再びアドベンチャーゲーム隆盛へ
「ジーザス」のようなタイプのゲームは、1987年以降のアドベンチャーゲームの主流となった。特に「ジーザス」を制作したエニックスは、この分野での第一人者的存在となり、「アンジェラス」、「バーニングポイント」、「ミスティブルー」(写真)と、非常に完成度の高いアドベンチャーゲームを生み出した。それぞれ、ホラー、探偵、恋愛をテーマにしたアドベンチャーゲームであるが、これまで88で培われたさまざまプログラムテクニックを駆使し、すばらしい演出を見せている。近年のゲームマシンでは、ムービーを入れることなど珍しいことではないが、この時代のアドベンチャーゲームは、ほんの少しの動画や、FM音源による音楽を最大限に利用し、なおかつシナリオや、細かいセリフ回しにまで気を配り、88という非力なマシンでもここまでの演出ができるということを見せつけてくれた。
他のメーカーでは、コナミの「スナッチャー」(写真)、T&ESOFTの「サイオブレード」、パンサーソフトの「神の聖都」、ソフトスタジオウイングの「怨霊戦記」など、実に多くのメーカーがこのタイプのアドベンチャーゲームにチャレンジし、さまざまな演出を見せた。特にコナミの「スナッチャー」は演出、音楽、シナリオにおいてすばらしい仕上がりを見せた。
「ジーザス」以降の88のアドベンチャーゲーム文化は、長い88ゲーム史において最も完成度が高く、充実したものだったと思う。そして近代のゲームと比較しても、これらのゲームの完成度は、決して遜色ない出来であると思うのだ。むしろ、近代のゲームで忘れ去られた何かを感じることができるのではないだろうか。
参考文献
電脳遊戯大全 018 019 より一部引用
山下章のADV&PRGIV ジーザスより一部引用
マイクロソフトアドベンチャー、ZORK、シェラオンライン社の画像、インフォコムの広告 :電脳遊戯大全より引用
雅氏の写真:山下章のADV&RPGIV ジーザスより引用