リアルタイムゲーム総括
アーケードゲーム事情
リアルタイムゲームの歴史はアーケードゲームからはじまっている。古くは「スペースウォー」や「ポン」にまで遡るが、1978年に流行した「スペースインベーダー」(写真)が日本では最も認知されているものだろう。その他にも、1979年に「ギャラクシアン」、1980年に「パックマン」や「平安京エイリアン」、「ルパン3世」といった固定画面ゲームがヒットし、さらに1983年になると、「ディグダグ」や「Mr.Do!」などの固定画面アクションが全盛になり、そのアイデアも多様になっていった。そして1983年に「ゼビウス」が登場。これまでのナムコの基板とは異なった新たなハードによる美しいグラフィックによるキャラクターとスクロール、敵の1つ1つに意味をもたせたストーリーなど、それまでのゲームとは一線を駕したゲームであった。「ゼビウス」以降、フルカラーを使った美しいスクロールゲームがアーケードゲームに増えていった。
初期の8001のリアルタイムゲーム
初期のパソコン用のリアルタイムゲームは「アーケードに追いつきたくとも追いつけなかった」という苦難の時代であった。PC8001の時代は、雑誌「I/O」や「マイコン」に毎月アーケードゲームのアイデアのそのまま拝借した「もどき」ゲームが多数掲載されていた。タイトルそのまま「パックマン」「スクランブル」「インベーダー」というネーミングのゲームも多数あった。当時は、ゲームセンターのゲームをなんとか家庭でプレーしようという目的で8001を購入するホビーユーザーも少なくなかった。というのも、この時期アーケードゲームに近いものを家でプレーしようとすると、パソコンを買うしか選択肢がなかったのである(ファミコンはまだ発売されていなかった)。しかし、16万円もする高価なパソコンを購入しても、お世辞にもアーケードゲームと似ているとは言い難い、簡素なグラフィックで表現されたゲームで満足するしかなかった。しかし、8001のユーザーは少しぐらい出来が悪いゲームでも、それがプログラムさえ打ち込めば楽しめるということに自体に満足感を覚えていたとも思う。ゲームの質よりも好きなときにゲームを家で遊べる喜びの方が大きかったのである。(画面は左がアーケードゲームの「ディグダグ」、右が富士音響RAMの「ジッグザッグ」。その差は歴然。)
PC8801の登場
88のリアルタイムゲームは、1983年2月にエニックスから発売された「ドアドア」から始まったと言っても差し支えないだろう。ドアドアは第1回エニックスホビープログラムコンテストの優秀賞を受賞した作品で、作者は後のチュンソフト代表取締役の中村光一氏である。このゲーム以前のメインプラットフォームは、PC8001であった。当初、NECではPC8001を家庭用パソコン、PC8801をビジネスパソコン用途として発売していた。PC8001はグラフィックが「160×100」、色もキャラクター単位で8色しか表現できなかかったため、ドットが非常に粗く、当時のアーケードゲームに匹敵するような美しいグラフィックは不可能であった。
このような状況の中、登場した「ドアドア」は誰の目からみても、アーケードのゲームにかなり近づいていた。というより、パソコン(当時はマイコン)でここまでのゲームが作れるということを初めて証明したゲームだった。いままでビジネス機だと思っていた88でゲームを作れば、アーケードとさして遜色のないグラフィックとクオリティでゲームが作れるのではないか?と誰もが思ったのである。
「ドアドア」の登場により、ホビーユーザー層が当時268,000円もする88を購入しはじめた。このころから、新規にソフトハウスがいくつか創業しはじめ、88のソフトを制作するようになった。さらにこの後に大流行したグラフィックアドベンチャーゲームは、88という美しいグラフィック表示を持ったマシンへのシフトを加速することになった。
※「ドアドア」登場以前にも、88用のゲームは実は多数発売されていた。しかし、それらのゲームは30万近くもする88を購入するまでの意欲を掻き立てるほどの内容ではなく、「これくらいのゲームならば8001で十分だ」とみな思っていたのである。
スクロールとスプライト
実は88はファミコン(1983年発売)とは違い、最初からホビー用として設計されていないため、グラフィックを使ったリアルタイムゲームの制作はかなり困難であった。背景とキャラクターの重ねあわせの処理を自動的に実現してくれる"スプライト機能"がなかったのが最大の問題であった。リアルタイムゲームには必ず背景とキャラクターの重ねあわせの処理が必要になる。ファミコンはスプライト機能があるため、背景との重ねあわせを自動的に行うことが出来た。しかし、88ではこの処理をするだけでかなり処理に手間がかかった。そのため、88初期のゲームは、背景との重ね合わせが必要のない、キャラクターが動く背景部分が黒の単色(または他の単色)というゲームがほとんどである。ただこれは初期のアーケードゲームにも見られたことである。
また、アーケードゲームで1983年に流行した「ゼビウス」のようなスクロールタイプのゲームは、88では最も難しい分野であった。というのも、前述のキャラクターと背景の重ね合わせに加えて、背景全体の書き換えが必要となるからである。背景が真っ暗な宇宙空間でのスクロールタイプのゲームならば、いくつか登場しているが、88のフルカラー8色を使ったスクロールは、画面をすべて書き換える方法では速度的にゲームにならず不可能とされていた。
結局8001時代のゲームも含めて、アーケードゲームの移植ものは、あらゆる面でオリジナルに限りなく近づくことはできず、"百円玉を大量に消費しないだけのマシン"という地位に甘んじるしかなかったといえる。
しかし、1983年6月に画期的なゲームが登場した。森田和郎氏が制作した「アルフォス」(写真)である。このゲームはそれまで不可能とされたスクロールゲームを、パレットの切り替えというアイデアで見事に表現した。しかも、あのアーケードの「ゼビウス」と酷似したゲームである。このパレット切り替えという手法は、後年も多くのゲームに使われ(「ザナドゥ」、「SeeNa」など)、88でスクロールゲームを作るための重要な手法となった。
パソコンでしかできないゲーム
しかし、高速なスクロールゲームはかなりプログラム技術がないと制作出来なかったため、1984年までの88のリアルタイムゲームの主流は依然として固定画面アクションゲームであった。ただ、制約があれば、その制約の中で新たなアイデアが生まれものである。たとえば、アーケードゲームは何らかの形でプレイ時間に制限をかける必要があるが、パソコンなら時間を気にせずにゆっくりとゲームが出来る。また、ディスクの容量を活かしたパターンの多いゲームも出来る。これらのゲームは「パズル」と結びついて、アクションパズルゲームの秀作を多く生み出した。
コンピュータパズルの先駆けとして登場したのは、シンキングラビットの「倉庫番」が有名であるが、これはリアルタイム性が弱いために「パズルゲームの総括」の項で改めて紹介する。「倉庫番」のアイデアに、アクション性を加えたものといえるのが「フラッピー(デービーソフト)」(写真)である。フラッピーは各面に1個あるブルーストーンを、指定された場所に運ぶという単純なものだが、その手順は難解なパズルそのもの。さらに敵がリアルタイムでフラッピーに邪魔を仕掛けてくるという、パズル+アクションのゲーム性を国内で初めて示したゲームだといえるだろう。
83年末から84年にかけて大ヒットしたアクションゲームといえば、「ロードランナー(システムソフト)」(写真)である。ロードランナーは米国ブローダーバンド社が発売したソフトで、これをシステムソフトが移植したものだ。ロードランナーは、PC9801用が1983年12月に発売され、そのあと88を含む非常に多くの機種に移植された。これほど多くの機種に移植されたゲームもないだろう。その累計出荷数は1984年ではダントツに1位であると思われる。ロードランナーは人間を操り、画面上の金塊をすべて取り、画面上部のはしごに脱出するゲームであるが、金塊の取り方に非常にパズル性があり、いろいろな穴掘りテクニックがあったものである。また、リアルタイムで敵が追いかけてくるので、アクション的要素も強い。まさにパソコンという土台でしか考えられなかったゲームだ(後にアーケードにも逆移植された)。
アーケードでヒットしなかったゲームだが
1984年までの88の固定アクションゲームを振り返ると、ほとんど似たようなゲームばかりだ。背景は1色(ほとんど黒)、その中でとても小さくてあまり魅力のないキャラクターが、ルールに従って動いていく。筆者の記憶するおもしろかったリアルタイムゲームというと、「ドアドア」、「ファイアードラゴン」、「野球狂」、「ニュートロン」(写真)、「大脱走」、「ロードランナー」、「フラッピー」ぐらいだろうか。非常に粗悪なゲームが多かった。そのようなゲームばかりプレーしていると、88ユーザーは、アーケードでは時代遅れの、ファミコンよりも劣る固定画面内をチョコマカと動き回るキャラクターゲームに、逆に親しみが出て、見る目も下がってしまったのかもしれない。
1つ、おもしろい例がある。タイトーから発売された「ちゃっくんぽっぷ」(写真)というゲームがあった(ちなみに「ちゃっくんぽっぷ」は、最初のタイトルが「ちゃっくんちゃっく」といって、東大マイコンクラブの酒井氏がベーシックマスターレベル3で開発したもの。タイトルの由来は、効果音が「チャックンチャックン、チャックン、チャックンチャックン」と鳴るところから。タイトーから発売される際に、タイトルが「ちゃっくんぽっぷ」と変更)。このゲーム、ちゃっくんの動きとルールが非常に分かりにくいため、アーケードでは全くヒットしなかった。ところがそれがパソコンに移植されると、瞬く間に大ヒットとなってしまった。アーケードでは誰も振り向かなかった、いわば「クソゲー」がヒットしたのだ。そう、私は考えてしまうのだ。あまりに出来の悪いリアルタイムゲームを毎日見せつけられ、目が全く肥えていなかった88ユーザーが「ちゃっくんぽっぷ」に惹きつけられた理由を・・(これ以上はちゃっくんファンの方に悪いので書きません)。
ロードランナー
1984年で最も売れたゲームはといわれれば、間違いなくシステムソフトの「ロードランナー」であろう。パソコンゲームの寿命が3ヶ月と言われた中、1983年の11月にPC9801版が登場して以来、一年間常に売り上げのトップグループに入り続けた。PC-9801を発売したあと、PCシリーズだけでもPC8801/8001mk2/6001mk2/6601用と幅広く移植されていったのも、売り上げに大きく貢献し、この年だけでも最低は5万本は出荷されたという。このロードランナー、元はBroderbund(ブローダーバンド)社のソフトで、全米でも「ベストセラー賞」「アーケードゲーム賞」などの数々の賞を受賞したヒット作である。
ちょっと余談になるが、ブローダバンド社の話と、ロードランナーの苦労話を少し。ブローダーバンド社は元法律家のダグ氏と、元スウェーデン語教師のギャリーさん、そして彼らの妹で元小売店勤務のキャシーさんの3人が集まって、1980年の2月に創立した会社である。同社は兄妹のきずなを最大限に活かして、設立以来急成長を遂げ、1984年には従業員が70名にも増えている。この会社の開発体制はチーム制で、企画、開発、マネージャーの3人が8~10ヶ月もの期間を与えられる。そして開発後、さらに3ヶ月をかけてデザイナーにマニュアルやパッケージを整備するといった体制が取られていた会社である。このような環境の中で、「ロードランナー」、「チョップリフター」、「David's Midnight Magic」といったヒット作が生まれたというわけだ。システムソフトでは、以前から日本でもっと質の高いゲームを作るべきだと考え、そのためにはまず本場アメリカのものを日本に紹介し、その面白さをユーザーに味わってもらおうと考えていたらしい。ブローダーバンド社も当時すでに東京にある日本のソフト会社と技術提携したり、社内で日本語会話教室を開くなどして、日本のことや日本のソフト市場についてかなり知識を有していた。そして幸いなことにシステムソフトのこともよく知っており、なんの問題もなく両者はすんなり契約は済んだという話である。このときのライセンス契約によって、システムソフトは「ロードランナー」「チョップリフター」「David's Midnight Magic」というクオリティの高い3本のソフトを移植することになったのである。
しかし、移植が決定したといっても、プログラムを機械的に左から右に変更するだけでは終わらなかった。ロードランナーはApple用にすべてマシン語でかかれており、ほとんど新しくプログラムを作り直したそうである。たとえばPC-9801のロードランナーを移植するとき、システムソフトはオリジナルDOSを開発し、そのDOSを起動するブート以外、ROM内のルーチンは一切使わなかった。つまりDOSやBIOSのルーチンコールは一切使わずにハードを直接コントロールするルーチンから各サブルーチン、メインルーチンに至るまで、全てオリジナルでプログラムをかくことになった。
また、移植にあたっては、オリジナルの味を損なわないようにするために、キャラクタの動きや効果音を移植するマシンの性能に最適化しなくてはいけない。しかもハードのスペックの違いにより、Apple版とPC9801版のロードランナーでは、横のレンガの数が2個少なくなってしまった。このたった2個の違いから、ゲームが難しくなりすぎたり、カンタンになったりしてしまう。こんな部分もプログラマーの必死の調整により、なんとか完成したということである。我々がとかく移植なんだから、そっくりにできて当たり前と思うが、裏ではこんな苦労話もあったということである。
野球狂
ロードランナーに続いて1984年にヒットしたのは「野球狂(ハドソン)」であった。野球狂は、発売後、雑誌ログインのトップチャートに1年間ベスト5に入り続けたほどの人気であった。ハドソンソフトは、1978年からパソコンソフトを発売している老舗中の老舗である。初期のハドソンソフトは月に10本ものソフトを量産し、質よりも量という戦略で、中身はひどいゲームが多かったのも事実である。しかし、1983年後半から、量より質の少数精鋭方式を取ることになる。ここからハドソンの進撃がはじまる。1983年に「デゼニランド」、「サラダの国のトマト姫」を発売し、アドベンチャーゲームブームを盛り上げた。そして次に発売されたのが「狂」シリーズである。「ジャン狂」からはじまったこのシリーズは主にテーブルゲームをゲーム化したものであるが、非常に高いレベルで仕上がっており、ユーザーが安心して買えるシリーズとなった。そして最も売れたのが「野球狂」である。野球狂は、それまでパソコンにはほとんどなかった本格9人制の野球ゲームで、キャラクターは2頭身ながらそれが非常にコミカルに表現され、ルールはほとんど現実に近く、当時としては野球をかなり忠実にシミュレートしていた。野球ゲームは動かすキャラクターが多いため、88ではなかなか実現しにくいゲームの1つだと思うのだが、初期でここまで完成度の高い野球ゲームがプレーできたというのは、ユーザーにもとてもうれしいことだった。
他に特徴的なアクションゲームはあった
1984年発売されたその他のアクションゲームでは、日本初のポリゴンゲームと言われているテクノソフトの「プラズマライン」(写真)がある。プラズマラインは宇宙空間3Dレースゲームであるが、ポリゴンを使った画面表示は画期的であった。しかし、ゲーム性の点ではいまひとつであったのが非常に残念である。余談だが、「プラズマライン」を制作したのは名作「サンダーフォース」を制作した吉村氏で、当時はまだ10代だったという話である。彼は後にアルシスソフトで「ウィバーン」、「スタークルーザー」などの名作ソフトのデザインを手掛けた。
また、「ゼビウス」の世界観を3Dワイヤーフレームとして捉えた「ジェルダ」など新しい技術を使ったゲームも登場した。
さらに、PC8001でも「FUNFAN」という風船を題材にしたゲームが発売された。稀に見るアイデアとすばらしいプログラムテクニックを兼ね備えたゲームで、PC8001では最高峰に位置するゲームだろう。
電波新聞社から発売された「ZENON」は、後に「Epsilon3」、「アルゴー」などを制作した呉英二氏の処女作であるが、「アルフォス」と同じプレーン分割により、緑色を主体としたコンピュータワールドを表現し、見事なスクロールシューティングゲームであった。
ピンボールゲームの流行
1983年にシステムサコム社の「MOON BALL(98用)」(写真)が登場して以来、88でもかなりの数のピンボールゲームが登場し、好評であった。主なところでは、T&E SOFTの「トリックボーイ(PC-6001)」、アスキーの「スーパーピンボール」、システムソフトの「David's Midnight Magic」、ポニカの「ボールパニカー」である。このころ登場したピンボールゲームは、「David's Midnight Magic」に代表される本物のピンボールシミュレート派と、「ボールパニカー」に代表されるパソコンならではのフィーチャーのあるピンボール派に別れた。しかし、後者は球の動きが不自然で飽きるのが早く、売り上げから見ても前者に軍配があがっていたように思われる。
PC8801mkIISRの登場
1985年にPC8801mkIISRが登場してすぐに、ゲームアーツから「テグザー」(写真)が発売された。テグザーは、SRの機能を極限まで駆使したゲームではなかったが、SR自体のグラフィックの処理スピードの向上から、それまでの88では見れらなかったスクロールスピードと、自機の変形のアニメーションを可能にし、88ユーザーを驚かせた。それまでファミコンにさえ負けていた88のリアルタイムゲームに、1つの光明を与えたのである。「テグザー」と同時に発売された「キュービーパニック」は、パソコンゲームの特徴である「リアルタイム+パズル」をさらに追求したゲームであった。計120個のもキューブがSRのパワーにモノを言わせて画面上を動き回り、その間を縫うように主人公のノッツ氏が走り回る。実は「キュービーパニック」を制作したのは、「ちゃっくんぽっぷ」を制作した東大マイコンクラブの酒井氏であった。
ロールプレイングゲームに押されたリアルタイムゲーム
SRの登場により、88のリアルタイムゲームもアーケードゲームに追いつくのではないか? と期待されたが、すぐに多くのSR専用のゲームは発売されなかった。やはり定価で16万円もするマシンをユーザーがそう簡単に買い替えることはできなかったし、ソフトメーカーもSR専用ゲームを作るよりは、それ以前の機種にターゲットを絞った方が売上も多いのは明らかであった。
こうしてSR専用ではなく、SR対応のゲーム(SRでプレーすると多少動きが速くなり快適になる)が数多く発売されることになった。まず思いつくのは、パズル性をさらに発展させた「ザ・キャッスル(アスキー)」(写真)である。「ザ・キャッスル」は単純に1画面のパズルではなく、すべての面を合わせてパズルになっているところがユニークで、これもパソコンならではのゲームである。他には、スキーを題材にした「ホットドッグ(ボーステック)」、真上から見たタイプのレースゲームである「アメリカントラック(日本テレネット)」、しゃべることで話題になった「ビクトリアスナイン(ニデコム)」などである。
また、「らぷてっく(デービーソフト)」(写真)というゲームが非常に出来がよかった。このゲームは昔懐かしい固定画面なのだが、容量を活かした面数の多さをウリにし、さらに個々のキャラクターを生き生きと描いた秀作であった。
しかし、1985年から1986年にかけてはアクションにロールプレイングゲームを合体させた「アクティブロールプレイングゲーム」が大ヒットしたため、上記の秀作ゲームたちも、ロールプレイングゲームの前に埋もれる結果となった。ソフトハウスでは、純粋なアクションゲームを制作するのならば、ロールプレイング的要素を加味した方が売れるということから、純粋なリアルタイムゲームは敬遠される傾向にあり、88では純粋なリアルタイムゲームは発売されなくなっていった。また1986年にもなると、ファミコンやアーケードゲームの質を考えても、純粋にリアルタイムな要素だけでアピールするのも、88はもはや機能的に役不足のマシンになってしまったのである。
リアルタイムゲームに果敢に挑むメーカー
しかし、果敢にアクションゲームに挑む会社もあった。「日本テレネット」と「システムソフト」である。他のソフトハウスが技術的な面をあまり追及しない中、日本テレネットとシステムソフトは、88の限界はまだ相当に上にあると確信し、プログラム的な技術面でいろいろと開拓しようとしていた意欲的なメーカーであった。その結果として登場したのが日本テレネットの「ファイナルゾーン」、「夢幻戦士ヴァリス」、システムソフトの「冒険浪漫」、「SeeNa」である。
「ファイナルゾーン」(写真)はSR専用として登場し、その機能をフルに生かして、フルカラースクロールと多数のキャラクターを同時に動かすという、88では難儀だった分野に果敢に挑戦した。さらにアクションゲームでありながら、ストーリーにドラマ性を加味し、まるでひとつの映画を見るような構成にしたという点で非常に斬新であった。「夢幻戦士ヴァリス」では、「ファイナルゾーン」で培った技術をさらに4方向スクロールに発展させ、デモやドラマ性もさらにパワーアップした。ただ、主人公が女子高生であるということを売りにした、「いかにも」というつくりのゲームになってしまったのが残念である。
一方、システムソフトは地味ながらゲーム性を重視したアクションゲーム「冒険浪漫」(写真)を発売。このゲームは一見ファコミンのゲームを連想するようなキャラクターと画面構成である。ファミコンが得意とするアクションタイプのゲームをパソコンゲームで出すというのは、88がファミコンに負けることを証明するようなものだ、と当時敬遠されていたタイプのゲームだったのだが、このゲーム、フタを空けてみると実に細かいところがよく出来ていた。主人公が拾うアイテムに、類稀ないアイデアが詰まっており、プレーしてみるとおもしろさがじわじわと伝わってくるのである。また、「SeeNa」はシステムソフトのスーパープログラマー「たいにゃん」がディスク制御用のサブCPUまで演算に使ったことで話題になった超高速3Dレースゲームである。思わずのけぞってしまいそうになるスピード感は多くのユーザーを驚かせた。
シルフィード登場
1987年に88で最高のシューティングゲームと後に称された「シルフィード」がゲームアーツから発売された。「テグザー」の後、リタルアイムゲーム好きなユーザーたちは、ゲームアーツの次回作として告知されていた「シルフィード」をずっと待ち望んでいたのだが、「シルフィード」の開発は難航し、当初1986年初頭の発売が1年以上遅れることになってしまった。しかし、「シルフィード」は待っただけの価値のあるゲームに仕上がった。このゲームのすごさは、何一つとっても出来が半端ではないことだ。まずデモ。ディスク1枚を使ったワイヤーフレームのデモは見るものに感動さえ与えた。また、ザカリテのボイス。この声のプログラムだけで3ヶ月かかったという話もある。また敵も3Dで計算されたデータを元に複雑な動きを見せ、しかもそれが超高速で動き回る。このゲームぼと「芸術」という言葉が当てはまるものはないだろう。
「シルフィード」の登場は、他のパソコンメーカーのシューティングゲームを作る意欲を削いでしまったようで、これ以後ほとんどシューティングゲームは作られなくなった。
スーパープログラマー池亀氏とスクロールスピード
「シルフィード」と前後して、いくつかリアルタイムゲームの秀作があったので紹介しよう。まずハート電子産業の「ヴァクソル」(写真)。88では非常に難しいと言われたフルカラーの3Dタイプのシューティングゲームである。敵の拡大縮小などリアルタイムできちんと処理されている。88版スペースハリアーとも異名をとったゲームで、ディスク制御用のサブCPUまで動員したという噂のプログラムは、かなり高度なものだったと思われるが、いかんせんゲームが単調でおもしろくなかったのが残念であった。
次に、スーパープログラマーと言われた池亀氏が制作した「ライレーン(BPS)」と「テスタメント(バショウハウス)」。池亀氏は、もとは「アルバトロス」などのプログラムを組んでいたという話があるが、真実は定かではない。その後、元ダンサーの高橋氏、ゲームデザイナーの飯淳氏などと「グローディア」を結成し、その第1弾がBPSから発売された「ライレーン」である。
「ライレーン」は48方向にスクロールするというのが広告でのウリであったが、それよりもこの当時(1986年)で最高のスクロールスピードを持っていたことが重要である。全面書き換えによるフルカラースクロールで、この時期にこれだけのスピードを実現した池亀氏には脱帽だろう。ちなみに画面の見えない部分に置かれているパーツは、ALUの3バンク高速転送を使用するために置かれているのかもしれないが(キャッシュのように)、解析していないので詳細は不明である。
次に池亀氏が制作したのが「テスタメント」(写真)というアクションシューティングゲーム。モンスターが閉じ込められている幻の「ディオドラン大陸」を探索し、8方向にスクロールしながら銃でモンスターを撃ちまくるというもので、メイン画面は、「女神転生」のように真上から見下ろしたようになっていて、背景は「ライレーン」よりもさらに細かくスクロールも超高速だったのが特徴であった。「テスタメント」のスクロールは、スクロールドットが非常に細かく、さらに「イース」などで使われた移動した差分のみを書き換えるという手法を使わずに、画面全面を転送してスクロールしているのが特徴で、これだけの転送処理をすると高速で美しいスクロールは通常難しいのだが、それをいとも簡単にやってのけてしまうのがスーパープログラマーたる由縁だろうか。また、スクロールゲームの場合、マップデータをディスクに持ち、それを移動する度に読み込むのが普通なのだが、「テスタメント」は、スムーズにスクロールさせるために、マップデータをメモリ内に持ち、モンスターデータをディスクから読み出すという方式が取られているのも、おもしろい試みであった。
参考文献:月刊BUGNEWS1986年9月号
スペースインベーダー、ディグダグの写真:電視遊戯大全より引用
ブローダーバンド社の写真:PCマガジン85年より引用
ムーンボールの画面:パッケージの裏面より引用