ロールプレイングゲーム総括
ロールプレイングゲームの発祥
ロールプレイングゲームやアドベンチャーゲームの成立や発展に大きな影響を及ぼしたのは「指輪物語」というファンタジー小説の元祖ともいうべきものである。指輪物語は、オックスフォードの大学教授であったJ.R.R.トールキンが作った「シルマリリオン」という神話の注釈書で、陽気な小人ホビット族のフロドが、すべてを統括する力のある指輪をモルドールの火山に捨てて無力にしてしまうために、エルフ族などのの力を借りて冒険を繰り広げるという壮大なファンタジーである。(写真は指輪物語)
指輪物語は、1960年代から70年代後半にかけてイギリスやアメリカで大ヒットし、その魅惑的なストーリーに夢中になる人が大勢現れたという。後に登場する「D&D」の基本世界ともいうべきファンタジーの下地は、指輪物語の大ヒットによって作られた部分が非常に大きいのである。
D&Dの登場
1974年、TSRホビーズ社からでD&D(ダンジョンズ&ドラゴンズ)という革命的なテーブルゲームが発売された。このゲームはロールプレイングゲームの元祖ともいうべきもので、作者はゲイリー・ガイジャックスとデイブ・アーンスンという人である。2人ともミニチュア・シミュレーションゲームが好きで、「剣と魔法」に代表されるヒロイック・ファンタジーの大ファンという共通項をもっていた。そんな2人の趣向を反映してか、D&Dの世界は先の「指輪物語」の世界観と同じファンタジーであり、魔法や超常現象が飛び交い、怪物たちがうろつき、宝物が迷路の奥に隠されている・・というものである。
D&Dは、ゲームの進行役を勤める1人のゲームマスターによって設定された迷路世界に、キャラクターになりきったプレイヤーたちが冒険を挑むという内容である。ゲームマスターは進行役、審判役であり、残りの人たちは、戦士、魔法使い、盗賊などの役を受け持つというゲームマスターVSプレイヤーチームの形式で進めれる。D&Dのおもしろさは何だろうか。ひとつは1回の冒険の筋書きや舞台、目的(隠された宝物をみつけるとか、城にいる大魔王を倒すとか)は、すべてゲームマスターが設定するため、1回のプレーですべてが終わるのではなく、常にゲームの展開が千差万別であるという点だ。迷路の形や、どこに怪物を置くか、どんな罠や謎を用意するか、これはすべてゲームマスターが決定し、しかもゲームマスターは絶対で、いろんな裁量権をもっているから、その場に応じて気の利いたゲーム進行が許される。
また、プレイヤー同士のやりとりもおもしろさの1つだろう。D&Dにはこうしなければならないというルールは特に無く、あらゆる行動に対してゲームマスターが結果を用意する。プレイヤー同士は目的のために「右へ行くか、左へ行くか」といった細かい事柄を協議し、誰かがひょんなアイデアを思いついて、それがきっかけでゲームが進行して盛り上がったりする、そんなプレイヤー同士の協力が大切なゲームである。
こんなD&Dだが、最初のうちは誕生の地アメリカでも、「変わったゲーム」ということで一部の物好きな人間しかプレイしていなかったが、少し経つと爆発的な広がりをみせ、ファンクラブができたり、日常の挨拶がわりにゲームの進み具合を聞いたりと、話題に事欠かないものになった。D&Dの他にもいくつも有名なゲームが登場した。SFを題材にした「トラベラー」、初心者向けの「ルーンクェスト」などである。
コンピュータロールプレイングの登場
D&Dの楽しさは、上記で述べたが、それにはいくつかのクリアすべき問題がある。
・人数が集まらないとプレイできない
・計算が面倒くさい
・ゲームマスターの腕にゲームのおもしろさが左右される
特にゲームマスターの腕というのが、非常に重要であった。ロールプレイングゲームがおもしろくなるかは、すべてゲームマスターの裁量にかかっていたのである。コンピュータロールプレイングゲームの発想は、このゲームマスターの役をコンピュータにやらせてしまおう、というところから来ている。もし、面白いシナリオをコンピュータで1度作れば、ゲームマスターがいなくても、一人で楽しいロールプレイングをプレーできるのである。そしてアメリカで、D&Dに影響されて登場したコンピュータゲームが登場した。それがローグ(Rouge)である。
ローグ
ローグは、1975年頃にカリフォルニア大バークレイ分校で、マイケル・トーイ、ケネス・アーノルド、グレン・ウィッチマンらが制作したUNIX上のロールプレイングゲームである。ローグは、遊ぶたびにダンジョンが変化するのが特徴で、様々なアイテムを駆使して怪物と戦い、地下迷宮の奥深くに隠された「イェンダーのお守り」を持ちかえるのがゲームの目的である。冒険結果などがスコアで表示され、複数のユーザーからランキングを競えるという点から、学生たちの間で大人気となった。
ローグの画面は各階80字×25行の文字、記号によって構成され、モンスターもアイテムもすべて英字が記号1文字で表現される。また、何度繰り返してもマンネリ化しないように毎回乱数が大きく作用しており、アイテムは一度使ってみるか、特殊な魔法で調べないと効果がわからないようになっている。(写真はPC8801版ローグ)
迷路は通路や階段によってつながれって無数の部屋で構成されている。プレイヤーは体力がなくならないように、様々な怪物を倒し、迷宮を探索していく。迷路には、怪物を倒すための武器や防具、そして魔法を使うことの出来る巻き物などが落ちており、それらをうまく使わないといけない。そしてプレイヤーは怪物を倒すたびに経験を積んで強くなっていく。
ローグは1986年にアスキーから88用にも発売されている。また、ローグをさらに発展させてできたのがnethackであり、こちらは今も精力的にバージョンアップされている。
パソコンでのロールプレイングゲーム
ローグはUNIX上で開発されたロールプレイングゲームであったが、パソコンでのロールプレイングはどうだったのだろうか。
パソコン初のロールプレイングというのははっきりしていないのだが、1978年に発売された「Beneath Apple Moner」(写真)、「RING QUEST」あたりが最初ではないかと言われている。そして有名なのが1979年にロード・ブリティッシュ(リチャード・ギャリオット:ウルティマの作者)が発表した「アカラベス」がある。アカラベスは、D&Dの何がでてくるかわからないハラハラドキドキの迷宮探検を、遠近法を使った3D化で見事に視覚化した。この3Dシステムは、その後の「ウルティマ」、「ウィザードリィ」にも使われている。また、迷宮を上方から平面的にとらえるという方式でまずまずの成功を収めた「ダンジョン・クエスト」シリーズ、ファンタジー・タイプの「オデッセイ」など、さまざまなロールプレイングゲームが登場している。
そして1980年代の始めのころに、現在でも最も知名度、完成度、多くのプレイヤーに与えた影響度が高いゲームである「ウィザードリィ」と「ウルティマ」が登場した。
ウィザードリィ
コーネル大学でコンピュータを学んでいたアンディー・グリンバーグは、数多くのゲーム仲間をもっていたが、ある日彼はそういった仲間たちと遊ぶすべてのゲームに飽きてしまった。そんな彼に、友人のひとりがいった「君のコンピュータでD&Dみたいなゲームを作ったらどうだ?」そこでアンディーは、買ったばかりのコンピュータに向かい、単純な迷路ゲームを作った。そして、迷路の中でD&Dのようにプレイヤーがキャラクターを扱い、ダンジョンの中で怪物と戦うゲームを制作。これが「ウィザードリィ」の原型になった。(写真はアンディー・グリンバーグ)
アンディーのつくったゲームは、あっという間に大学中で評判になった。これを聞きつけてやってきたのが、ロバート・ウッドヘッドである(写真)。ロバートもコーネル大学の学生だったが、すでにサーテック社でプログラミングの仕事をしていた。彼もテーブルトークRPGを考えていたのであった。ふたりは意気投合し、プログラマーとして優秀なロバートの力を借り、さらにふたりの共同のゲームデザインの作業を経て、アンディーのゲームは次第に進化していった。そして完成したのが「ウィザードリィ」である。
ウィザードリィは、経験値によってキャラクターが成長していくというシステム、3D迷路によってマップを表示するシステムといった、後のコンピュータロールプレイングの重要な要素を確立したといえるだろう。
ウルティマ
ロード・ブリティッシュ(リチャード・ギャリオット:写真)は、高校生の頃からD&Dをプレーし、その興味もあって高校のコンピュータクラスで、ファンタジーロールプレイングゲームをコンピュータで何本も作っていた。高校を卒業後、アップル用にグラフィックをつけて作ったのが先の「アカラベス」である。このゲームは、カリフォルニア・パシフィックという会社から発売されたが、本人はそれほど出版に詳しくなかったので、販売は会社にまかせっきりという形であった。しかし、意外にこのゲームが売れたため、ロード・ブリティッシュはこの種のゲームを本格的に作リ始める。そしてテキサス大学に入学してからまる1年かけて制作したのが「ウルティマⅠ」である。
ウルティマ(写真はPC88版ウルティマ1)は、ウィザードリィとは異なり、基本は地上を歩き回るところを上からみた形になっており(以前のこのシステムのゲームでは「オデッセイ」などがある)、時には地下の迷宮、町に入り、3D迷路になるというシステムであった。また、ウィザードリィが続編を考えた1本のシナリオになっているのに対し、ウルティマの続編は全く異なったゲームにどんどんスケールアップしていっているのも大きい。
3Dダンジョン形式の元祖RPGがウィザードリィ、平面マップの元祖RPGがウルティマと言われるのは、この2つのゲームの完成度が抜きん出て高かったことなのだろう。
日本でのロールプレイングゲーム
日本で「ロールプレイングゲーム」という言葉が聞かれるようになったのは、1983年の春ぐらいだと思われる。月刊ログイン誌上で「ウィザードリィ」をメインとした特集を組んだのが、きっかけになっている。実際には、1982年あたりから、ロールプレイング的な要素を含むゲームも登場しているが、当時「ロールプレイング」という言葉が日本には無かったため、広告に使われることはほとんどなかった。
日本で最初のロールプレイングゲームは明確ではないが、1982年に光栄が発売した「ドラゴンアンドプリンセス」(写真)にこの要素が含まれていた。1983年に入ると、自称日本初のロールプレイングゲームと広告した光栄の「クフ王の秘密」、同じく光栄の「ダンジョン」と「剣と魔法」、日本ファルコムの「ぱのらま島」、大名マイコン学院の「ポイボス」、コムパックの「聖剣伝説」、CSKの「ボイジャー1号」、日本マイコン学院の「バウンドット」などが発売された。しかし、このころのロールプレイングゲームは、アドベンチャーゲームとの違いが明確になっていないものが多く、アトベンチャーゲームに、人間の体力という要素がついているだけというものも数多くあった。おそらく制作側もアメリカのロールプレイングゲームの画面だけをみて、その本質を全く理解しないまま作っていたのだろう。
また、雑誌では相変わらずアップルのウルティマやウィザードリィの記事が何度も組まれ、さらに「国産ののRPGもこれらのソフトに近づいてきた」など記述していた部分もあり、ユーザーもロールプレイングゲームに関しての正しい解釈が出来ていないままであった(中には、ロールプレイングの「ロール」を「ROLL」という意味でとらえていた人もいたぐらいだ)。
ロールプレイングゲームで最も大切な、「設定された冒険世界をゲームの主人公と一体となって経験する」というおもしろさを初めて感じさせてくれた代表的なゲームは、1983年に発売されたBPSの「ザ・ブラックオニキス」(写真)だろう。「ザ・ブラックオニキス」は、「ウィザードリィ」タイプのロールプレイングゲームだが、ウィザードリィの特徴である複雑なキャラクター設定や魔法を排除し、よりロールプレイングゲームの純粋なおもしろさだけを引き出した部分が成功したと思われる。「ザ・ブラックオニキス」は発売当初は売上が伸び悩んだものの、各雑誌で取り上げられるにつれ、爆発的なヒットをみせた。
地図作りの重要性
ザ・ブラックオニキスのおもしろさの1つとして、「地図を作る」ということがあった。当時のロールプレイングゲームでは、地図を作るという作業は基本中の基本の作業であった。これはブラックオニキスの元となった、ウィザードリィでも同様で、さらにその元をたどれば、D&Dということになる。アメリカではボードゲームという土壌が以前から存在し、ウィザードリィはそれをコンピュータゲーム化したようなものである。そのような土壌の中で、地図を作るという行為に違和感はほとんどなかったのだろう。(写真はファンタジアンの手書きマップ。当時はこんな感じで書いていた。)
しかし、ロールプレイングゲームの下地となるものがなかった日本人の多くは、「地図を作る」という行為が必要なのか分からなかった。ザ・ブラックオニキスをプレーしていた人の中には、地図も書かずに、迷宮をさまよい続けていた人もいた。ザ・ブラックオニキスの作者であるヘンク氏やコンラッド小沢氏は、ボードゲームの愛好家であった。だから彼らは地図作りの必要性に固執し、ザ・ブラックオニキスをマッピングの作業なしに解くことが困難なものとした。発売後しばらくして、徐々に日本人にも地図の重要性と面白さが伝わり、それが新たな楽しみへと変化したときに、このゲームが爆発的なヒットを記録したのである。地図を作らないと解答が困難なロールプレイングゲームは以前には存在した。たとえば、光栄の「ダンジョン」などである。しかし、これらのゲームに共通していえることは、ただダンジョンがむやみに広く、その過程において何ら新鮮なものを発見できないという点にあった。ザ・ブラックオニキスは、地図を作りながら新たな敵を発見したり、レベルを上げていくという楽しみがうまく融合されていた。
しかし、その後も日本人には、「なんでこんなに苦労して地図を作らなければならないのか?」という根本的な違和感があったと思う。それを証明するかのように、ロールプレイングゲームは次第に「地図を書く」ことから離れ、「シナリオ」や「世界観」で勝負していくものに変貌していくことになった。
日本人に馴染みが薄かったファンタジー
大ヒットした「ザ・ブラックオニキス」は、ウィザードリィに見られる複雑なキャラクター設定や魔法システムを廃し、ロールプレイングゲームの基本部分のおもしろさだけを残した。ロールプレイングゲームはアドベンチャーゲームと違って、同じシナリオでも、人それぞれ筋道が異なり、自分だけの物語、世界を作っていけるところがおもしろいのだと思うのだ。
しかし、初期のロールプレイングゲームは、そのおもしろさがなかなかユーザーに伝わらなかった事実がある。その理由の1つとして考えられるのは、日本人がファンタジー世界に慣れていなかったということが挙げられると思う。
D&Dを初めとするロールプレイングゲームの舞台は、圧倒的に剣と魔法のヒロイックファンタジーの世界が多い。そして日本で発売された初期のロールプレイングも、アメリカのそれを見様見真似で作っていたものが圧倒的に多かったので、そのような舞台のものが大半であった。西洋の魔物や妖怪がウヨウヨしているような世界を剣一つで自らの道を切り開いていくなどという世界は、いまでこそ想像はつくが、当時してはいまいちピンとこなかった。
そもそもどうしてロールプレイング=ファンタジーということになったのだろうか。ロールプレイングゲームの最大の特徴は、主人公自身の成長もさることながら、解きおわったあとの感動、一言でいうと「自我の境地」ということになる。つまり、物語の世界に浸り、非日常的な世界を体験することによって生まれる感動である。この感動をうるためには、余計なことを考えずに感情移入しやすい自然、ファンタジーの世界は格好の舞台であり、日夜ドラゴンと戦うなんていうストーリーは、シンプルで明確であり、分かりやすい。また主人公の状態や、モンスターの強さ、体力なども簡単に数値化できたし、主人公のとる行動も、ファンタジーの世界ならばいくつも分岐する必要がない。たとえば、モンスターが現れたなんていう事態では、戦うか逃げるか、和解を申し込むかくらいの行動しかやりようがない。これがロールプレイングゲームがファンタジーということになったという背景の1つであろう。
日本でD&Dが流行したのは1985年以降だったと記憶している。1983年~1984年にかけて、このような世界を舞台にしたゲームを作っても、ほとんどのユーザーはイメージが沸かなかった。モンスターに「オーク」とか「コボルド」が出てきても、文字やつたないグラフィックイメージだけでは、世界観をユーザーに与えることができずに自滅していったソフトも多かったと思う。その点、成功したのがBPSの「ザ・ブラックオニキス」とクリスタルソフトの「夢幻の心臓」(写真)だろう。両ソフトとも、初期ではヒットしたロールプレイングゲームだが、共通していえることはユーザーに世界をきちんと視覚化して情報を与えていたことである。特に「夢幻の心臓」は、モンスターの表示が画面の半分を占めていたほど力を入れていた。ファンタジーな世界に慣れていない日本人にとって、名前だけでは全く想像もつかない西洋の不気味なモンスターが、美しいグラフィックで表現されたのである。この情報によってユーザーは世界観を理解でき、ロールプレイングの基本中の基本である「コンピュータという非日常的な世界にまるで自分がいるような一体感」を得ることが出来たのである。
このゲームのヒットの後、クリスタルソフトの「ファンタジアン」(写真)、GA夢の「西部の成り上がり」、「サイキックシティ」、BPSの「ザ・ファイアークリスタル」などが登場し、ロールプレイングゲームがパソコンゲームユーザーに浸透していった。
アクティブロールプレイングの登場
「ザ・ブラックオニキス」は名作「ウィザードリィ」のシステムを継承し、「夢幻の心臓」は名作「ウルティマ」のシステムを継承した。基本的な2つのタイプのロールプレイングゲームが登場し、この後発売された数多くのゲームは、このどちらかのシステムを必ず踏襲していた。
この2つのシステムは、ロールプレイングゲームに必要不可欠な「世界を移動する」ということを表現するときに非常にすぐれたシステムであった。そしてこのシステムは決してロールプレイングと名のつくゲームである以上、絶対に欠かすことが出来ないシステムであると思われた。
しかし、1984年の後半に、ロールプレイングゲームにリアルタイムゲームの性質を持たせたゲームが登場した。実はこのタイプのゲームは当時、本場のアメリカでもまだ登場していない(あったとしても主流にはなっていない)、日本オリジナルのものであった。まず先陣を切ったのは、アスキーから発売された「ボコスカウォーズ」(写真)である。このゲームは、第一回アスキーソフトウェアコンテストのグランプリ作品で、ゲームの目的は600m先の王室にいる王様をやっつけることである。King、Knight、pronというキャラクターがおり、部隊を組んで木や石をよけ、敵と戦いながら1歩1歩、敵の王室に近づいていく。敵と味方がぶつかると自動的に戦闘になり、負けた兵は消失する。だが、反対に勝てばキャラクターのレベルがあがるというものだった。このゲームはロールプレイングゲームかどうか微妙なところである。広告でもロールプレイングゲームと謳っていなかったし、定義からしても外れるかもしれない。しかし、このゲームが見せたシステムは、当時としては非常に斬新なものだった。
1984年の11月には、日本ファルコムから「ドラゴンスレイヤー」、コスモスコンピュータから「カレイジアスペルセウス」が登場するが、最もパソコンゲームに影響を与えたこのタイプのゲームといえば、1984年12月に発売されたT&ESOFTの「ハイドライド」だろう。「ハイドライド」が他のゲームと明らかに違ったのは、フルカラーを使った美しいグラフィックで世界を表現したこと、数値をメーターで表して視認性を良くしたこと、そしてなにより謎解きのバランスが抜群によく出来ていたことであった。このゲームは単純にリアルタイムゲームとしてみても、キャラクターと背景の重ね合わせが実に見事でスピードも速かった。他のゲームがそれほどキー裁きが重要ではなかったのだが、「ハイドライド」はアクションとしてのテクニックもゲーム性に影響したのである。
実は「アクティブロールプレイング」という言葉は、「ハイドライド」が宣伝文句として初めて用いたものだ。そして「ハイドライド」以後、このタイプのゲームはすべて「アクティブロールプレイングゲーム」と呼ばれるようになってしまった。
ロールプレイングゲーム全盛期へ
アドベンチャーゲームが飽和状態となりつつあった1984年。なにか新しい刺激を求めていた88ユーザーたちは、年末に発売された「ハイドライド」に夢中になった。そして1985年もこのハイドライド旋風は収まらなかった。ハイドライドはフィールドを自分の庭のように自由に歩き回ることができ、それが従来のロールプレイングゲームにはない自由度をユーザーに与えた。ユーザーはこの居心地の良い世界にどっぷりとはまってしまった。ハイドライドが売れると、他のメーカーもアクティブロールプレイングゲームを制作しはじめた。ザインソフトの「トリトーン」(写真)、システムサコムの「メルヘンヴェール」などである。どのゲームもそれぞれ味があったが、本家のハイドライドの完成度には及ぶことができなかった。
また、従来型タイプ(ウルティマタイプ、ウィザードリィタイプ)のロールプレイングにも新たな試みが見られた。マジカルズゥの「ザ・スクリーマー」(写真)はSFを舞台にし、マニュアルにマンガをつけたという点でユニークであったし、スタークラフトの「アリババ」は総勢40人ものキャラクターを1人で演じるという変わり種である。BPSの「エプシロン3」は3Dマップにリアルタイムの戦闘システムを導入した。また、光栄の「タイムエンパイア」やマジカルズゥの「マカカーラ」は舞台を日本に設定し、戦国時代の妖しさ、激しさを表現した。
ザナドゥVSハイドライドII
1985年末に、日本ファルコムから「ザナドゥ」が、T&ESOFTからは大ヒットしたハイドライドの続編である「ハイドライドII」(写真)が発売された。この2本は実に因縁深い対決である。というのも、1984年に日本ファルコムは、おそらく日本で初の本格的アクティブロールプレイングである「ドラゴンスレイヤー」を発売しながら、その話題を後発の「ハイドライド」に奪われる形になったからである。奇しくも、「ザナドゥ」に付けられたサブタイトルは「ドラゴンスレイヤーII」であった。
両ソフトとも発売されるや否や、大ヒットとなった。「ハイドライドII」は前作「ハイドライド」に「TALKモード」「お金の概念」「マルチウィンドウ」「魔法」などのシステムを追加搭載したが、基本的なゲームシステムは「ハイドライド」とほとんど同一であった。作者の内藤氏はできれば別のゲームを作りたかったらしいが、ビジネスとしては、「ハイドライド」のネームバリューを捨てることはできない。そうなると舞台はおのずとフェアリーランドに限定され、ダンジョンを増やしたり、ユーザーの意見を取り入れるというのが主な作業になってしまったのである。そう、「ハイドライドII」は前作の爆発的なヒットのため、残念ながら前作を大きく脱却することができなかったのである。マップが広くなり、謎が難しくなったため、ゲームが前作よりも冗長になった。フィールドを歩き回るだけでハイドライドのような楽しさが画面から伝わってこないのは、このシリーズには致命的なことであった。大ヒットしたゲームの続編をヒットさせるのは、かなり難しい。というのも、前作のイメージがあまりに強いため、ゲームシステムを極端に変えてしまうと、旧来からのユーザーに不評になる。しかし、そのままスケールを拡張しただけでは、前作でそのシステムに満足したユーザーを、さらなるレベルでは決して満足させることはできない。ハイドライドIIのジレンマがここにあったのだと思う。
一方、「ザナドゥ」(写真)は前作からガラッと変わった雰囲気になった。アクション性を下げることにより、アクションゲームが苦手な層にも十分アピールした。「ザナドゥ」は純粋にキャラクターの成長を楽しむゲームとして制作され、それはプレイヤーの能力、武器などの細かい設定、迷路に入る前のメイキングシステムなどに見ることが出来る。また、敵の出現に乱数はなく、どの箇所のどのモンスターがいるのか最初から決められて配置されており、そのモンスターを倒すと二度とその箇所からはモンスターが出現しない。また、マップも複雑でパズルのように組み合わされているが、それを克服したときの楽しさを感じさせてくれた。また、自分のキャラクターの数倍もあるデカキャラがボスとして登場。実にインパクトのあるものだった。
「ハイドライドII」も「ザナドゥ」もそれぞれ多くのファンがつき、どちらのゲームが優れているかという議論もあったが、「ザナドゥ」の方が売上、人気とも「ハイドライドII」を少し上回ったようである。しかし、どちらのゲームが優れているのかという議論はここで行っても無意味だろう。
「ザナドゥ」によって日本ファルコムの知名度は著しく上昇した。1986年に日本ファルコムは「ロマンシア」「太陽の神殿」「ザナドゥシナリオII」と立て続けにソフトを発売し、これがいずれもヒットした。日本ファルコムには「ドラゴンスレイヤー」シリーズを制作した天才プログラマーの木屋氏(写真)、後の大ヒットになる「イース」を制作した橋本氏、「太陽の神殿」の宮本氏などの優秀な人材が集まり、スクロール、重ね合わせなどのプログラム技術も他のメーカーをリードしていた。そしてこれらのゲームのヒットにより、「ファルコム信者」なる言葉が飛び出すほど、日本ファルコムのゲームをこよなく愛するユーザーまで多数出現した。
日本ファルコム VS T&ESOFTの第2ラウンドは、日本ファルコムに軍配が上がったのである。
ウィザードリィ登場
遂に1985年の12月に「ウィザードリィ」が移植され、1986年のお正月はウィザードリィ三昧だったユーザーも多かったのではないだろうか。ウィザードリィは1981年にアメリカで登場し、発売と同時にトップチャートに躍り出て、それ以降もずっとランキングのトップに鎮座し続けた怪物ゲームであった。ウィザードリィは、ボードゲームの名作「D&D」をコンピュータゲームに移したようなものである。
元々ウィザードリィは、オリジナルのアップルII版ではPASCALという言語を使った14000行にも及ぶコードで制作され、当時としては最大と言われていた。日本版のウィザードリィは、アップル版だけでなく、PASCALで3000行以上にも上るマッキントッシュ版の機能を盛り込んでいる。日本版の移植はSIR-TECH社が版権を獲得し、移植は株式会社フォア・チューンが、販売はアスキーが行うというちょっと複雑な関係になっている。
ウィザードリィの特徴は、良くも悪くも「D&D」というボードゲームをコンピュータ化したところにある。ウィザードリィが「D&D」から受け継いだもので、その最たるものは、キャラクターシステムの出来栄えに見ることができる。これは1つ1つの職業の特徴が、ゲームを進めていく上で非常に重要な意味をもってくる(特に序盤戦において顕著)ことや、職業も基本キャラクター4種類、優等キャラクター(エリートキャラクター)4種類があり、前者はトレーニング・グラウンドにおける初めのキャラクター作成でつくることができ、後者は資格が難しいので、ダンジョン内で経験を積んでレベルアップした後、職業替えして作ったりすることなどにも見られる。ウィザードリィの特徴は、単なる表面的なキャラクターシステムだけとどまらない。ウィザードリィをプレイしてみれば分かることだが、プレイして得られる満足感と絶妙なゲームバランスがウィザードリィの世界といえる。ウィザードリィをプレイしていると、常に何がしかの身近な目標を目指している自分を発見して驚くであろう。彼方にある目標が何であろうと、ひとつひとつの目標を達成していくうちに、ウェルドナとの距離が自然とせばまってゆく。これはボードゲームの名ダンジョンマスターが常にプレイヤーを楽しませるのを心がけているかのようで、絶妙である。
国産のウィザードリィタイプのロールプレイングは、ウィザードリィ自身がボードゲームから受け継いだ内面的な世界を見ずに、外面的な形式だけを真似してしまったものが多すぎたのだと思う。それは、1986年という後年、つまりユーザーがウィザードリィタイプのロールプレイングに飽和状態だった時期に移植されたにもかかわらず、多くのプレイヤーがウィザードリィにどっぷりとはまってしまったことからも証明された事実であろう。
日本ファルコムの黄金期
「ザナドゥ」、「ロマンシア」、「ザナドゥシナリオII」と立て続けにヒットを飛ばした日本ファルコムが1987年に世に送り出したゲームが「イース」(写真)であった。イースはそれまでの日本ファルコムのゲームとは全く性質の違うものであった。それまでのロールプレイングゲームに共通していえることは、「ともかく難しい」ということであった。ゲームを解き終えるのには、並大抵の努力では達成できなかった。「ロマンシア」、「ザナドゥシナリオII」に至っては、初心者には入る込める余地もないほど難しく、マニアのためのゲームといった感じさえあった。ただ、一部のユーザーたちは、難しいゲームを解くとことが何かステイタスのように感じていた部分もあった。
イースを開発したのは、ドラコンスレイヤーシリーズを制作した木屋氏の弟子と言われている橋本昌哉氏であった。橋本氏は難しいロールプレイングゲームというのが本当におもしろいゲームなのか疑問を感じ、いままでとは全く逆の、マニアではなく初心者にでも気軽にプレーできる、とっつきやすいものを作ろうと考えたのである。イースの優れているところはドラマ性を全面に打ち出し、それまでロールプレイングで非常に重要とされた「怪物を倒して経験値を上げる」という要素を必要以上にシナリオに干渉させないようにしたことだ。イースはシナリオが非常にしっかりと作られており、ゲームの最終目的に行く前に、少しずつ「小さな目的」を達成することで、全体像が自然と見えるように出来ている。このときにユーザーが迷わないように、次に何をしたらよいのかということを、ゲーム中に登場する人間たちとの会話で巧みに誘導している。さらにその目的を達成する間に、主人公も自然と戦って強くなっており、ユーザーが経験値を上げるために無駄な戦闘を繰り返す必要もない。また、アクションが苦手の人に対する配慮として、アクションシーンも、キャラクターを半分ずらして敵にぶつかるとダメージを受けないといった仕組みに見られるように、簡単な操作で敵を倒すことが出来るようになっている。
これらの要素では、ゲームが簡単に解けてしまいつまらないのではないかと考えがちであるが、イースはそれなりのボリュームを持ち、1時間や2時間で解けるものではなかった。またシナリオがしっかりしているため、いままでのロールプレイングゲームでは、解いた後に「やっと終わった」という感想が多かったのであるが、イースではそれが感動に変わったという点も大きい。
こうしてロールプレイングゲームもアドベンチャーゲーム同様に、誰にでも解くことができ、ゲームを終わらせることよりも、ゲームのシナリオを楽しんでもらうというタイプのものが徐々に増えていくようになった。日本ファルコムはこのあとも「イースII」、「ソーサリアン」、「ドラゴンスレイヤー英雄伝説」、「ぽっぷるメイル」と、88史上に残る名作ロールプレイングゲームを次々と発表し、結局最後まで88ゲームをリードしていった感がある。
ドラマチックロールプレイングゲーム続々と
「イース」の大ヒットにより、他のソフトハウスもシナリオ重視型のロールプレイングゲーム(ストーリーによって次の行動の方向を規定するタイプ)に目を向けるようになった。1987年の11月に発売されたブレイングレイの「抜忍伝説」(写真)は、「アバンダントゲーム」と銘打ち、ドラマのように主人公のキャラクターを明確に設定し、ストーリーをふんだんなアニメーション処理と音楽を使ったデモシーンによって表現していくというタイプのものであった。このタイプのゲームは、1986年に発売された日本テレネットの「ファイナルゾーン」、「夢幻戦士ヴァリス」に見られたものと同じであるが、ゲーム進行がロールプレイング仕立てになっているという点で、目新しかった。このゲームを制作した中心人物は、元光栄の社員であった飯島健夫氏である。飯島氏は学生のころから映画作りを手掛け、ゲームに映画作りの手法を加えられないかと考えていた一人である。飯島氏は、このあと同社から「ラストハルマゲドン」、リバーヒルソフトから「BURAI上巻」を手掛け、この分野での草分け的な存在になった。
ストーリーによって次の行動の方向性を決めるスタイルのロールプレイングゲームは、プレイヤーを誘導しやすく、またプレイヤーにとっても次に何をしたらよいのか分かりやすいという点で受け入れられていった。つまり、選択肢の多さからユーザーが自分自身であれこれと考えるゲームよりも、選択肢が少なくて手軽にちょっとした感動を味わえるゲームの方に人気が集まったということだ。日本人は人から指示されたことを実行するのに慣れているが、自分で考えて行動することが苦手であるとよく言われる。徐々にパソコンゲームユーザーの裾野が広くなるにつれ、自分で新しいものを探していく"不親切だが自由度のあるゲーム"から、"親切だが一本道のゲーム"になったことは、ユーザーが求める自然な流れだったのかもしれない。
ただ、本当の意味での「ロールプレイング」は、やはり前者のタイプのゲームだろう。昔ながらのこのタイプのゲームは、T&ESOFTの「ハイドライド3」(写真)を境にして徐々に消滅していった。この手のゲームは、主人公はあくまでプレーヤーであり、その世界を知るために、プレーヤーは縦横無尽にフィールドを駈け回り、いろいろなことを思考錯誤して楽しんだ。常になにかを発見しようという冒険心を持っていた。このような楽しみは、本からも映画からも得ることは出来ない、ゲーム独特のものだった。このようなタイプのゲームが減少したことは実に残念である。
親切で比較的簡単にゲームが解けるタイプのロールプレイングゲームは、そんな自由度とプレーヤーの冒険心を排除した代わりに、設定された世界、キャラクターに対して感情移入させることを目的とした。アニメや映画に近づいたと言えるが、ゲーム特有の性質、つまり戦闘や経験値、移動といったさまざまな要素により、アニメや映画とはまた別の新しいタイプの娯楽が出現したとも言えるだろう。
このタイプのゲームは、ビジュアル中心のゲームが多く、デモと音楽が得意のテレネットからは「夢幻戦士ヴァリスII」、ウルフチームから「アークス」、「アークスII」、「ミッドガルツ」、バショウハウスから「エメラルドドラゴン」、マイクロキャビンから「サーク」。このタイプのゲームは、1991年以降のPC-9801の時代、さらには現在のプレイステーションへと受け継がれ、美しいポリゴンを駆使したビジュアルシーン、戦闘シーンはいまなお見るものを魅了しつづけている。
参考文献
株式会社アスキー ログイン 1983年No.11 P.70より一部引用、1986年8月号P.142より一部引用
電視遊戯大全 016 017 より一部引用
角川書店 コンプティーク 1990年5月号 P.74~P.77より一部引用
株式会社アスキー ウィン・ローグ P.4~P.9より一部引用
日本ソフトバンク BEEP 86年1月号 P.61、115~116より一部引用
山下章のAVG&RPGⅢ イースより一部引用
橋本氏の写真:山下章のAVG&RPGⅢ イースより引用
画像:電視遊戯大全より、指輪物語、ビニースアップルマナー、木屋氏の写真を引用